世界は称賛に値する

日記を書きます

自然分類と人工分類

▼▼分類するのは好きだ。分類していて、自然物を分類しようとするのと、人工物を分類しようとするのは、若干、違うのではないか、って思った。ぜんぜん別物ではないか、ということも思った。なんというか、人間には、見逃しや勘違いがありうる。自然には、まあ、なさそうだ。見逃しや勘違いがありうるであろう人の製造物を整理しようとすることには無駄や無意味がかなりありうるだろ、って思った。
▼▼実際に存在する生き物たちを分類しようとするのと、物語に出てくる生き物たちを分類しようとするのは、同じ行為と捉えてよいのか?って思ったのだった。
▼▼世界そのものを頭脳で相手取る、のと、人の頭脳を頭脳で相手出る、のは、挙動が違うじゃん、種類が違うじゃん、って言いたくなった。

打ち消されているのでじっと見る

▼▼非常という言葉を見つめた時に、非という言葉にくっついている「常」という言葉が見せようとしているものを、まず想像してみてから、否定する側に頭を動かしてみて、常にあらず──常ではない、といった情景を思い浮かべてみたりする。不調という言葉ならば「調」に着目するし、未熟ならば「熟」を意識するし、無視ならば「視」に注意する。
▼▼といった「打ち消しの接頭語が付いている単語を見る時には、打ち消されている側の言葉を、じっと見つめることになる」という挙動を好んでいるなー、って気づいた。
▼▼非常、異常、超常、というふうに、同じ言葉の上に異なる接頭語がくっついてくる状況、を見つめて、非/異/超、といった言葉の違いを見つめるのも、好きだ。
▼▼熟語を構成している文字ひとつひとつを見つめて、意味と意味の噛み合わせかたを見つめることになる、っていう行動がとにかく好きなのだった。意味見るの好きだ。

楽園的

▼▼楽観的、楽天的、というような言葉で、じぶんが頻繁にしがちな解釈の傾向を称することがあったのだけど、世界がそういうふうであればよいのにー、というかそうであるということにしておこうぜ、決めつけちゃおうよー、わからんので好みの状況であると決めつけて語っておこうー、という身勝手な「世界の在りかた」を織り交ぜているところも多々あるので、楽園的、という言いかたが似合うんじゃないかな、って思いついた。楽園であることを前提にして指針を決めているところがあるだろ、と思った。
▼▼楽園的な考えかた。楽園的な解釈。楽園的なスタンス。楽園的な性格。
▼▼話を巻き戻してツッコむけれど、これ、楽天的、で、いいんじゃないの?(天という言葉は「世界」を意味しているのでは……)

発想飛躍ネットワーク

▼▼発想の飛躍、発想の省略、発想の矛盾、にまつわる、おのおのの習性、に「個性」を見ようとするのは、素敵だ、って思った。
▼▼発想の飛躍、発想の省略、発想の矛盾、について、長年の思考や経験や生活が築きあげた「ニューラルネットワーク」に「個性」を見ようとするのも素敵、とも思った。

「聞く」だと、内側を切り開いてみせる挙動は、想像させられない

▼▼意味を解釈するプロセスにおいて、意味を見つめる、といった「見る」ことによる比喩は、有効だと思っているな、と思った、▼▼意味を聞き取る、意味に耳を澄ます、というような「聞く」による比喩を、相応しくなさそうに思っている、とも思った。
▼▼人の発言には意味があり、演奏された曲にも意味がある、のに、聴覚に響いたものから「意味を読み取ろう」とした時にも、聞く、より、見る、という言葉のほうが、なんとなく似合う気がしてしまっている、なんて思った。音声にも音楽にも「意味を見る」を使いがちだ。
▼▼音を「聞く」っていう行動には、内側を見る──内側を読み取る、といった挙動は含まれていないような印象がある、気がするのだよなー。音というものは、まず「全体」を取り込む、ということを前提や下地にしているところがありそう、というか……。だからこそ「聞く」という行動では内側や内部を曝けない、というか……。

無いがわかる(?)

▼▼人類は言語を得たことで「無い」ということを想像の範疇に落としこめたのだ、っていう話を聞くことは、沢山あって、正直、滅茶苦茶強く納得してしまってたのだけど、類型や経験をいったんは疑っていく哲学的な懐疑スタンスで行くのなら──好きならば、ここもあやしんでみてよいだろ、と思った。言語があろうとなかろうと人類は「無い」ということが理解できる生理を持っていたのでは?