世界は称賛に値する

日記を書きます

くだものはおおむね漢字じゃない雰囲気

▼▼くだものの「漢字じゃない率」はスゴイな、と思った。漢字だと硬い印象が出る、ひらがなだとやわらかい印象が出る、というような言説に対しては、疑問も不満もいくらかはあるのだけど、くだもの関連の文字列を眺めていたら、納得させられるところが流石にあるな、とは思った。甘いものを「やわらかい」と見做すところに違和や不満を覚えにくい、のは、なぜなのだろう、ということも思った。結局のところ神経や筋肉の緊張に因るんじゃないのかな、と最近は思っているところもある。

弱キャラいなくてよい(ゲームなんだから現実と似ていなくても)

▼▼ゲームキャラクターに関して、最後まで育てれば強い、愛があれば強くできる、システムを駆使することで裏技的に強い運用が可能(意図的版と偶然版があるとは思う)、戦略や戦術の中でおのおのの活躍の余地がある、というような扱いが用意されていることは多々あって、単なる弱キャラ、というのは減ってきたんじゃないか、って思っている。昔に比べたら減ってきた気がする。単なる弱キャラなんていなくてよいじゃん、なぜ登場させているんだ、とか思ってしまう習性は、多少あるかと思う。無駄なキャラクターはいないほうがよいはず、選別や育成に関しては失敗なんてないほうがよいはず、というような観点があるのだ。ゲームキャラクターに限らず、死にスキル、失敗選択肢、などに関しても思ってしまいがちである。
▼▼でもまあ、わざわざ用意しているからには、意味があるんだろう、創作者の意志や意図や、目的、作戦、都合、があるんだろう、とは思ってみたりもする。


▼▼創作者の狙いに関する第一案、として、あえて弱いキャラばかりを使用する、という縛りをつけた遊びかたをすることは可能であって、こういった自由を許容し可能にするために、用意している、というのがあるんじゃないかなあ、とは思った。


▼▼創作者の狙いに関する第二案、として、実際に弱い人はいるのだから、リアリティの獲得のために──現実と似せるため、現実に近づかせるため、に、用意しているのだ、というのもあったりするんじゃないかなー、って思ったりもした。「皆が、同じように、強くなりうる、世界」なんて、確かに現実的ではない。といったことに対して、ゲームだからよいじゃん、と、あっさり思える人も、ぜんぜん思えない人も、いるはずであって、このあたりのことについていずれを選ぶか、に関して、不平不満を言ってみても、しょうがないんじゃないかねえ、とは、思える──思える気も、してきた。不平不満を思ってしまうじぶんは、ゲームだからよいじゃん、現実に似てなくたってよいじゃん、と思っているほうなんだろう、とも思った。


▼▼とは思いつつ、いやでも違う可能性もあるんじゃないかなあ……、って思った。キャラクターの能力値の強弱に関して、如何なるキャラクターであろうと強くなりうるように設定してみせる人、というのは何も「ゲームなんだから現実と似てなくても別によい」と思っている人ばかりじゃないだろう……、って思ったのだった。なんというか、現実的な世界だって実は「皆が、同じように、強くなりうる、世界」であるかもしれない、と期待している人の場合があるんじゃないのか? って思ったのだ。
▼▼ある人間が、今後、強くなりうるか、可能性があるか、なんて、結局は未知数だ。こどもからおとなにかけては「強くもなるだろう」って雰囲気が強いし、おとなの範囲内であっても「強くならないとは言い切れない」雰囲気はある。意識や精神が変化したり、なんとなく慣れたり、説明を受けてコツを掴んだりして、上手い下手が変わることは、あるはずである。こういった変動の向こうに期待を寄せている人がいたって、よいじゃん、とは思ったのであった。


▼▼っていう、リアリティ主導の話(現実に似ているかどうかを背景にしていることが当然みたいな空気)は、まあでも、置いておいてもよいのかな……。別に、ゲームとしてバランスが取れているほうが単純によいじゃん、無駄も失敗も少ないほうがよいじゃん、現実がどうとかまったく関係ない(見もしてないよ)、といった意識だって、また、ぜんぜんあってよいはずである。▼▼なんか「ゲーム内世界と現実世界の挙動を「同じ」ようにしたほうがよい派」的な頭の働かせかたをしてしまっているぞ、って思えてきたので、再調整を図ったしだいだ。


▼▼ゲームが楽しくあるために、物語が楽しくあるために、現実世界での事象の構造や確率なんかと比べた場合に「都合がよすぎる」ことが、やはりあるわけだけれど、そもそも、現実に「近づける」「似せる」ことが──「現実」にいったん目を向けることが、ゲームや物語として、正しかったり、当然であったり必須であったり、するわけでは、ない。ぜんぜん似ていないことが、いくらか似ていることが、誤解を招くことが、人生や個人の意識や文化に関して、害為すことはあるだろうけど、でもって、害為さないよう調整を図るのも自由だけれど、「現実と比べてみると都合よいところがある」ことが、ゲームや物語として、悪であったり、駄目であったり、破綻や失敗であったり、するわけではない。ぼくたちはあれらを現実のコピーのために存在している/存在させている、わけではない。


▼▼書いているうちに気づけてきたので、混乱しつつ言葉を繋げてみた。
▼▼物語に対して「都合がよすぎるんじゃないの?」っていう言葉を向けたがっていることが多いこと、あるいは、ゲームシステムに対して「現実の挙動に近づいてゆくことが正当な進化だ」と思っていそうなこと、が、浮き彫りになってきて、おおお、って思った。

ランク言葉選びで正しさが匂うかどうか

▼▼高級って言葉からは「正しさ」がわずかに匂っている気がしている。上級という言葉からも高級ほどではないけれど、なんとなく匂っているかなあ。上品という言葉になると空間が異なってくる印象だ。というか上品の場合は「正しさ」というよりは「美しさ」の匂いという印象かなー。逆に言うと、低級は「正しくなさ」が匂う、と言える? 上級と高級が若干異なるように、下級は低級とは若干異なる、のかな? 下品は確かに「美しくなさ」かもという気もする。▼▼上品/下品、に相当するであろう、高品/低品、という言葉はなさそうなので、選んでくるなら、高品質/低品質、になりそうなのだけど、まあこうなると、正しさとはぜんぜん関係ない空気が出ている(気がする)。つまり「級」という言葉が──ランク言葉が「正しさ」を匂わせている、ってことなんだろうか。上品/下品に関わっている「品位」や「品格」あたりだと、やっぱり「正しさ」とは違う軸になりそう、って改めて思った。上位/下位、上等/下等、も話に混ぜることはできそう。優等、高等、上等、とか、上質、良質、(高品質?)、あたりも関係はさせられる、かなあ……。
▼▼うーん、上、よりは、高、のほうが、正しさが匂っている気がする。なんとなくだ。

絶滅絶無を望む意味で、悪

▼▼善悪という基準をあまり好んでいないなあと思った。悪というものに対し、いないほうがよい、この場から失せろ、この世から消えろ、絶滅してしまえ、絶無が素敵、という宣言や強制を見て取ってしまっているところがあるからだ。人類に、人類史に、人に、不要、と言っている気分になる。▼▼いや別に、そこまで強い形状の「悪」、そういう在りかたではない「善」、を見つめながら、「善/悪」という言葉を口にしている人は、いるはずだろ、って思い直した。
▼▼というか、法的基準、法律判定的な善悪基準のみを見つめながら「善/悪」などを口にしている人は、当然いるんじゃなかろうか、とは思える。法的な善悪だけを見つめながら持ち出される「善/悪」という言葉、が、使えるなら、それはそれでよいことだ、とも思った(変なところや、余計なところを、見る癖がついてしまっている。混ざっていたら嫌だなと思って警戒してしまっている)。


▼▼多少の追記。
▼▼悪だ、っていう言葉に「存在すべきじゃない」という意味を孕ませようとしてしまうの、悪意、っていう言葉を使っている時だと、人が人に向けている害意や敵意、という狭い範囲で見ることができているので孕ませようとせずに済んでいるし、悪事、っていう言葉を使っている時なんかも、地域や個人の範囲を逸脱しない形での迷惑や被害という雰囲気で見ることができており孕ませていない雰囲気がある。悪だ、っていう言いかたの時だけ、なぜ、こんなに、おおきな範囲を見ながら言ってしまうのかなー、とは思った。

時間がある時のじぶんと時間がない時のじぶん(判断ミスに気づく余裕があるところまでをじぶんとするのと、初手となる判断までをいったんじぶんとするのと)

▼▼ぼけっとぼやっと書いた文章を、時間を置いて読み返してみた時に、ツッコミどころ満載!ぜんぜん整理出来ていない!論理が破綻!論理が飛躍!とか思って──思えて、改訂してしまうことがあったりするのだけど、というか、一昨日の日記を全面改訂と言ってよいほどおおきく書き換えてしまったのだけど(書いて数日後に読み返して修正するところまでを「日記」の一工程として認識しているところがあり、書き換えるのは常、と言えるし、常でよいかあ、とも思ってはいる)、ぼけっとぼやっと書いた言葉のほうが、自然体、日常、普段、と言えたりするかとも思うため、こうして書き直したものばかり残そうとしているのは、若干ズルくない? と思ってしまうところも、ある(まあ確かに、短慮と浅慮のまま話していたならば、それを話しただろう、とは思うのだけれど、同時に、深慮と深慮のもとで対話をしていたならば、こういう修正にも辿り着いただろう、とも思うので、別にズルイという話でもなくない?という気も、した)(時間がある時とない時の、じぶん、というふうに考えてみて、時間がある時ばかりを前面に出してみせる、ということの、狡さ、というか嘘さ? 虚偽、虚栄、虚妄?)(時間がある時とない時では、どちらが「メイン」なのか、という問いになるのかなー。人間としての「メイン」。人生としての「メイン」)