世界は称賛に値する

日記を書きます

可燃幸福に薪をくべる

▼▼誕生日にも年始にも似たような雰囲気で幸せのことを見つめたくなる癖があって、区切りごとに幸せの燃焼区域に薪をくべておきましょうかねー、的な認識があるのかな、と思ったのだけど、普段から──日常の中で、常にくべられるようになっていたほうがよいんじゃないだろうか、とも思って──思ってみて、でもまあ、とはいえ、区切りごとに幸せに目が向くくらいのほうがむしろよかったりするのでは?───定期的に「幸せに薪をくべよう」と思えるなんて幸せなことなんじゃない? というようなことも、思った。
▼▼毎日幸せに薪をくべる習性は素敵だと思う、のだけど、実際のところ、あるいは、じぶんの性能的に、可能なのかなあそんなことが……。短い間隔で繰り返され続けることによる飽きや慣れは、怖い。つかれちゃいそうなのも挫折感が出そうなのも怖い。区切りごとに気が向く、っていう状況は、まあまあ理想的なのでは?

トリックと怪人、リトルタウンビルダーズ、マッチメイカーズで遊んだ(琥珀色ボードゲーム会)

琥珀色ボードゲーム会 2017.12.31

▼▼二〇一七年の終わり。年をまたぎながらボードゲームで遊んだ。意識の中で構成されうる「区切り」というものの機能や性能を意識するようになってから、年越し、というものを、以前より、重要だ、大切だ、と思うようにはなった、のだけど、別に年末とか関係ないし、という観念も、好きではある。脳内コントロール志向、観念の独立志向、は基本好きである。▼▼遊びすぎ、でもって、面白すぎ、楽しみすぎ──楽しめすぎ、といった状況に対する、呵責、やましさ、後ろめたさ、後ろ暗さ、などはあって、年越しで遊びましたー、というような言葉で紛らわそうとしているところは、あるかと思う。活動内部にあった衝撃を活動の外部の衝撃でなんとなく誤魔化そうとしているところがある。というところまで書いてみて、いやなぜ誤魔化そうとしてんの? って思い始めたりもした。愉悦や快楽に溺れている時に、隠そうとする、誤魔化そうとしてしまう、ところは、まあまあある気がする。気持ちの話じゃなく環境の話にすることで、フォーカスを、じぶんから逸らそうとする、っていう手口も、やりがちなのかな……。▼▼いずれにせよ、素敵な遊び納めで、満足しました。
▼▼『トリックと怪人』→『リトルタウンビルダーズ』→『マッチメイカーズ』という順番で遊んだ。驚くほどびっくりどっぷり楽しんだと言える。ほんとうに三つとも出色の出来栄えだった。



トリックと怪人(プレイ2回目)

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▼▼十枚のカード、二枚の手札、で遊ぶ推理型。手軽さと面白さの噛み合わせによる評価目線を向けたら、現状では最上位気味だ。手札情報と、相手の出した色(色だけ判る)から、場に伏せて出されているカードで「一番強い」やつを当てる。推理がはかどるし推理が楽しいメカニクス、を考えた時に、こういう削ぎ落としに行き着くの、素敵すぎる。
──評価最大【10】点中、幅としては【5~10】の印象で、現状【9】点に重心。






リトルタウンビルダーズ(初プレイ)

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▼▼四角マス目状のボードにワーカー駒を置く、もしくは、建物を建てる(建てる時にもワーカーが一人使われる)。配置によって周囲八マスの効果が発動。建築と効果コンボと食糧のバランスが非常に素晴らしかった。マップ構成と建物タイルが非常に練り込まれている。建物を建てたところにはワーカーは置けなくなる、の挙動が素敵で驚いた。
──評価最大【10】点中、幅としては【6~10】の印象で、現状【9】点に重心。






マッチメイカーズ(初プレイ)

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▼▼バトル漫画のトーナメント編に際して、推しキャラを決めてから、アンケートを送ることで、バトルをコントロールしてゆく。じゃんけん的対戦バランス、アンケートでの調整、因縁の対決要素、覚醒必殺技の条件、での、フレーバー再現具合とゲームとしての面白さが、非常に巧みだった。いろんなところで遊びたいゲームだ。拡張出ないかな。
──評価最大【10】点中、幅としては【4~9】の印象で、現状【8】点に重心。

皇帝なき帝国、恐怖の古代寺院、ボブジテン、歴史悠久、シュレディンガーの宴、アノコロの俺ら、で遊んだ(薄墨色ボードゲーム会)

薄墨色ボードゲーム会 2017.12.30

▼▼恒例の忘年会に合わせてボードゲームで遊ぶようにもなった。なんて書いてはみたものの、昨今のようにボードゲームを遊ぶようになる前も、同じように、デジタルゲームで遊んでいただけだった。遊び会から始めて飲み会で終えた。▼▼遊んだ順番は『皇帝なき帝国・新版』→『恐怖の古代寺院』→『ボブジテン』→『歴史悠久』→『シュレディンガーの宴』→『アノコロの俺ら Vol.1』であった。定例の飲み会の場所の近所に貸し会議室があって非常に助かっている。




皇帝なき帝国・新版(初プレイ)

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▼▼人待ちのあいだ二人で対戦した。神聖ローマ帝国で都市の支配と貴族の支援を奪い合う。数値で奪う都市と色で奪う貴族の調整が素晴らしい。素敵なゲームデザインだと感激した。再販してくれてよかった。同デザイナーの新作『高慢パティシエ』も欲しいな。
──評価、最大【10】点中、【5~9】の幅の印象で、現状の評価は【9】かな。






恐怖の古代寺院(初プレイ・リメイク前は遊び済)

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▼▼手軽な正体隠匿カードゲーム『タイムボム』の海外版。五人対戦。引いたら敗北側に寄る「罠」が二枚になり、「宝物」がプレイ人数+2になっている。すごくよい調整だと思った。タイムボム新版もこうすればよかったのに、とは思わされた。好きだ。
──評価、最大【10】点中、【6~9】の幅の印象で、現状の評価は【9】かな。






ボブジテン(プレイ3回目)

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▼▼最初に、カタカナ語をカタカナを使わずに説明する、という説明を聞いた時に、ここまでの楽しさを想像できていたかと問われると、困る。ということに残念さを覚えるくらい、盛り上がりが抜群かつ手軽だ。爆売れするのも判る。言葉の選定が上手い気がする。
──評価、最大【10】点中、【6~9】の幅の印象で、現状の評価は【8】かな。






歴史悠久(プレイ2回目)

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▼▼文明を築き上げる型ゲームは長く重い、といった風潮がある中、だいぶ手軽な機構が練り上げられている。長さを怖れて文明系ゲームに手を出せていないところもあり、現状では、気軽に遊べるのが大変素敵だ。追加カードが欲しくのは判る。拡張出ないかな。
──評価、最大【10】点中、【5~7】の幅の印象で、現状の評価は【7】かな。






シュレディンガーの宴(プレイ3回目)

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▼▼黒猫陣営と白猫陣営に「分かれるようにして」遊ぶ。遊んでいくうちに陣営が確定する。カードに、陣営ごとの確率と得点が書かれていて、相手や自分の場に、カードを置いてゆく。確率百%で陣営が確定する。楽しいけどあいかわらず見づらさに嵌まった。
──評価、最大【10】点中、【5~8】の幅の印象で、現状の評価は【6】かな。






アノコロの俺ら(初プレイ)

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▼1980~90年代生まれのツボに嵌まりそうな「思い出の出来事」がうまいことカード化されていて、時系列に並べる。上手く並べられたら得点が貰える。一回並べたら、カードとカードのあいだには新しいカードを追加できないところがきちんとゲームしていてよい。
──評価、最大【10】点中、【3~9】の幅の印象で、現状の評価は【7】かな。

よいお年をの外側

▼▼よいお年を、と伝えても、よい年を迎えられるかどうかは不明だ。言ったところで無意味だ、無駄だ、特に変わらないだろう、という判断は、ありうる。とはいえ、何を思うか、何を言うか、が、この世に与える影響なんて、無である、といった判断もまた、やっぱり極端で、おかしなものではあるかと思う。言ったこと思ったことによって世界は普通に変化するはず。だからつまり言ったほうがよい、って思いたくもなるのだけれど、この判断もまた、極端で浅慮なものではあるだろう。言ったほうがよいかは当然ながら場合による。ケースバイケースだ。簡単に変化させられるであろうもの──そう簡単には変化させられないもの、の線引きが、あるはずであり、ここにある境界線を、意識し、重視してゆく、といったやりかたを選ぶこともまた、妥当だ。人生の指針として、あってよい。簡単に変化させられそう/簡単には変化させられないだろう、という判断は、時に的確かつ適切で、時に勘違いであり、明確な判断なんてなく、判りやすい答えすらない。知性も情熱も絡むし、偶然も運命も絡む。結局のところ、判断ミスがありうる。というふうに、判断の誤謬と瑕疵を見つめ、線引きの曖昧さも見つめ、対処しきれないとしか思えない「変化させられないであろう」もの、に対し、しかしそれでも期待する、しかしそれでも行動する、というような場面が、人間および人生には、あって、このあたりの気持ちや動きのことを、祈り、とか、願い、とか、あるいは、勇気とか真摯とか、言ったりする。言ったりもする。美しいものを見つめるかのように目を細めていることがある。微笑んでいる時が確かにある。
▼▼決して人の手の届かないであろうところの事柄に対し、強靱な覚悟と決意のもと、なんとか手を伸ばそうとすること──してみせること。というのを、祈りとか願いとか、呼びたくなる、んだけど、でも──でも、このあたりに、祈りや願い、といった言葉の「重心」を置かない意志や認識も、実のところ、好きな気は、している。なんというか、人と世界の構造が創り出している「外側」のことを、祈りや願い、の定義に絡めないのも、非常に好きである。というか、どちらも重なりあっているようなもの、重ね合わせているようなもの、が、好きかもだ。外側を見つめた(見つめられない)想いと、外側を見つめない(見つめないと決めた)想いを、同時に頭と胸に思い描き、混ぜ合わせている、ような気持ちが、好きだ、って思っているところがある。▼▼ので、「よいお年を!」の背後にこういった混ぜ合わせを置いておけたらよいな、って思った。

アブストラクトゲームの定義の曖昧

▼▼アナログゲームにおいて、乱数要素がないことと隠匿情報がないことが「アブストラクト」という分類の基準ではないはずであり、真っ当に見るなら、抽象的であることが基準であるはずなのだけど、抽象的なアナログゲームが「乱数要素をあまり持たず」「隠匿情報をあまり持たなかった」せいで、基準が置き換わってしまった気配がある。勘違いと混乱の風味がある分類習慣が出来てしまっている。▼▼というのが、まあなんとなく気になって、まあなんとなく嫌で、別の呼び名、ないのかな、って考えている時があったりもする。
▼▼無いことが基準か、少なければよいあたりが基準か、というところにも、混乱があるかと思う。0と1では大違いと言えるし、当然、0と0.000000000000001でも、まったく別である。というような混乱があって、結局、線引きがなかなか曖昧になっている。▼▼抽象性の濃淡もよく判らないしなあ。将棋やチェスの駒はいちおう意味合いがあって、とはいえ抽象的ではあり、囲碁やオセロの駒は、抽象性マックスなのは間違いなく、意味を解釈可能かもあやしい。だから囲碁やオセロのほうが「アブストラクト」と言ってよい? というか厳密に言うならば、「多少の抽象性」は、如何なるアナログゲームだろうと持っているはずのものであり(現物でないわけで、若干は、抽象化されている)、ぜんぶがぜんぶアブストラクトだ、とも言うことは、いちおう可能、なのだよな……。▼▼といった段階で「抽象度が比較的高いほうのものである」というのが基準になってしまっているのだから、乱数要素や隠匿情報の有無や濃淡にまつわるところの定義がぼんやりしてしまっているのも、多少はしょうがないじゃん、というか、突き詰めるのは無理じゃん、ってことが言えたりは、するのかな。しそうだな。


▼▼うまい言い回し、うまい使いかた、はないものかなあ、と、けっこう継続的に考えてしまっている。まだ考えると思う。まだ気になってしまうと思う。来年というか今後に向けて一回文章として書いておいた。