世界は称賛に値する

日記を書きます

ボードゲームカフェ「アソビCafe」に行ってきた

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▼▼神保町にあるボードゲームカフェ「アソビCafe」に行ってきた。初めて訪れた。最近はボードゲームカフェの開拓を意識して動いているところがあるなあ。遊ぶ場所と相手と機会を増やしたいようだ。神保町には馴染みがあって、好きな街だ。暇な時には散歩しに行ったりもしている。
▼▼「アソビcafe」は神保町を出て、水道橋方面に向かっていったところにあった。週末はかなり満席気味、という話を見かけることも多かったので、事前に予約の電話をかけておき、勤務を終えたあとに友人と二人で遊びに行った。相席推奨のボードゲームカフェである、という話も聞いたことがあった。電話予約の時にも「相席オーケー」で伝えて、結果的に、四名の人と相席しつつ遊んだ。ものすごく楽しかったと言える。初対面の人と遊ぶのはやはりまだまだ新鮮な楽しみがあるな。
▼▼夏休みの土曜の夜だからなのか、非常に人も多くて、相席オーケーにしたけど相手がいない、ということはなさそうだ、と思える雰囲気だった。ボードゲームカフェに「相席歓迎」で行くことについては、相手がおらず待ち時間が長くなってしまう、という事態を常に怖れてしまっているのだけど、ここならまあありえないんじゃないか、と言ってよい状態に見えた。一人で遊びに来てもぜんぜん問題ないだろう、と思える情景だった。
▼▼到着した直後に見た光景は、ほんとうにお客さんで溢れていて、これだと寿司詰めかなあ、なんて想像したのだけど、テーブルについたあとは、比較的、ゆったりした空間で過ごすことができた。過ごしづらさを覚えるようなことはなかった。案内も丁寧で、相席の状況も含め、細かく様子を見てくれている雰囲気もあったので、不安要素はほんとうにうまく排除されていたんじゃないかと思う。素敵空間であった。ボードゲームカフェの初手としては現状の経験の中では最もオススメしやすい場所だと思った。
▼▼料理も美味だ、という評判も聞いていたのだけど、遊ぶのに夢中で、結局食べられなかった。のが無念と言えば無念である。▼▼今回遊んだのは『スパイフォール』→『ドメモ』→『ラミィキューブ』→『ドブル』。『ドブル』は初めて遊んだ。簡単ゲーながら一回遊んでみたかったので、運がよかった。最も遊んだのは『ラミィキューブ』で、かなり白熱した。定期的に遊びに行きたい気分になっている。

asobicafe.com


スパイフォール 日本語版

スパイフォール 日本語版

推理と駆け引きの数字当てゲーム ドメモ (DOMEMO)

推理と駆け引きの数字当てゲーム ドメモ (DOMEMO)

Rummikub(ラミィキューブ)

Rummikub(ラミィキューブ)

ドブル 日本語版

ドブル 日本語版

更新嬉々雑記

▼▼言葉を書く、という行動は、好き、というか、性に合ってるんだろう、とは思う。結局特に飽きないし。
▼▼敬愛する日記が更新されて読めると、幸せだー、好きだー、と毎回書きたくなる。一回素直に書いておかねば、とも思った。単純すぎて書かないほうがよい、書いても満足できない、というふうに思考が回ることは多々あるけど、だからって一回も書かない、というのにも、違和が出る。一回をいつ出すか、一回をいつなら出す気分になれるか。一回かどうかなんて憶えていられなくない? とは頻繁に考える。
▼▼重荷にならないような言葉選びと伝えかたで、しかし、しっかり伝わる、といった状況や情景や、機構を、異様に求めている、というか好みすぎ怖れすぎ、なところがある。言葉を足していくことで基本的には鈍重になっていくはず、と思っているのだけど、単独で軽量化の効果を発揮してくれる言葉とか、噛み合わせと響き合わせによって軽量感を醸し出してくれる言葉とか、が、あるようだ、と認識もしていて、使おうとしたがる癖もある。あるなあ。
▼▼言葉と単語と文章、というワードの「範囲調整」には、こだわりがち、というか、惹かれがちだ。
▼▼重荷にならないとよいのだけど、重荷に思って欲しいわけじゃない、という気持ちが伝われば──そう言っていれば、まあまあ程よく差し引きして受け止めてもらえる、んじゃないかなー、と思えるような感覚と経験は、ある。でもまあ、万が一は怖いし。それに、無意識に気にしちゃってる、は、誰も防げないだろうし。
▼▼思想の自由というほどではないけれど、思うことは自由だ、何を思ってもよい、とは思っている。とはいえ、この許容は、思いから行動が出てくることがありうることと、誰かの行動がじぶんに実害を与えるであろうこと、被害により人生が毀損されるのが怖くて嫌なこと、を除外して考えている。そういったことまですべて含めての「よし」ではない。多少は覚悟のうえであったとしても、全面的ではない。全面的だと思っていることがあったとしても実際に全面的であるかは微妙だ。という判断によって、こういう思考が発生しないよう、禁止するよう、減衰させるよう、行動する、ってなった時に、どう動くか、どう動く作法と流儀と、うまさや効率化があるか、っていうことは改めて考えてよいかな、って思った。
▼▼駄文失礼、と書かれるの好きじゃないな、と思っていた時期があることを思い出した。最近はあんまり見なくなった。慣れたり諦めたり許したりしたわけでもなく、好きになったわけでもなく、見なくなったので、気にならなくなった。好きな文章に「駄文です」って書かれると嫌だ、哀しい、というようなことではあった。今でも書かれたら思うだろう。駄文だなあと思いながら書いている人が減ったのか、駄文だと称する文化が縁遠くなったのか(まわりに書いている人が沢山いたらいくらか定型文的に書きたくなるところはある気がする)、まあでも、書かれなくなったのは嬉しい。駄文だ、と書いてしまうくらいの気分を背景に書かれた文章も、なかなか(あるいは、かなり)面白かった気はするけれど。駄文かどうかはこちらが決めるのに……(そちらがなんと言おうと、ぼくは好きなので!駄文じゃないので! だから駄文だとか思わないで!)なんて思っていたところはけっこう強めにあったのだけど、このあたりはあまり思わなくなったかな。当人が駄文と思うのも自由だ、と思うようにはなった。
▼▼繋がってるような繋がってないような発想の接続のまま書き連ねた。雑記だ。

ボードゲーム雑談(別アカウントつくった)

▼▼日本ではボードゲームは現状あんまりメジャーじゃないところがあって、マイナーやニッチという言葉が冠されがちだったようなのだけど、インターネットや動画配信という新技術による後押しなんかの影響も少しずつあって、昨今、若干、伸びてきている、というような話は、聞く。実際に市場規模も増加しつつあるようだ(ここ5年で4~5倍になったという統計がある)(とはいえ、ようやく「犬用ガム」と同じレベルに並んだー、というツッコミが出てきたくらいの規模ではあるのだけれど)。
▼▼世界全体でも市場規模が伸びつつある、という話も聞くことがあって、え、そうなんだ、なぜだ、と思ったりもした。日陰気味だった日本で陽の光が当たり始めた、というならともかく、人類全体がボードゲームに寄っていっていることの理由が、あんまり思いつかなかったのだ。
▼▼というか、いわゆる「コンピュータなどの電子機器の普及が、人と人との繋がりを薄めたため、反動として、直接、言葉と顔と肌の触れ合う、緻密で繊細な情報量の、非電子ゲームが普及、し始めたのでは」っていうような、俗説、言説が、もしかしてちょっと信憑性あったりするんだろうか? と疑ってしまったのだった。時代性の「反動」パターンはわりと疑ってかかってしまう癖があるので、あんまり疑わないほうがよいのかな、と反省し始めたのだった(反省したほうがよいのかなと考え始めた次第だ)、まあでもともかく、直接相手プレイヤーと対面しながら頭と手を動かす、っていう感覚、確かに、ボードゲーム的楽しみの一つとしては、ある。けっこうな特色として見ることはできる。というあたりがツボに嵌まっているのかどうか、自覚としては不明瞭なのだけど、まあ相変わらずボードゲームには嵌まっている。好きだ。


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twitter.com


▼▼好きが昂じたのでボードゲーム用のアカウントを作ってみた。仮運用としてしばらく試していたのだけど、区分けしている状況、けっこうよさげだなー、と思えたので、今後は仮じゃなくてよいか、と今回思った。
▼▼日記としての「ボードゲームで遊んだ記録」については、これまで同様、こちらに書く形でよいかな、と思っているのだけど、詳しく細かく書く場合は別媒体があってもよいのでは、とも思った。現状だと、ブログサービスを使うか、SNS的なボードゲームレビューサイトを使うか、を選ぶ雰囲気かな。


▼▼あんまり沢山はオフラインで遊ぶ会に参加したことがないのだけど、ボードゲーム会は催してみてもよいな、という気持ちに最近はなる。というくらい好きで、けっこう珍しいくらい好きになっている気はする。遊んでみたい人と楽しんでくれそうな人がまあまあいそうなところも後押ししている。

硬ければ真面目で、真面目なら未熟でも

▼▼数年前の文章を読み返した時なんかに、文章内思考が比較的浅はかで安易なところで立ち止まってしまっていたとしても──現時点の進行段階で読み直すと「いやもっと丁寧に続きまで考えろよー」と思ってしまうようなものであったとしても、ある程度は硬質な文章であったもののほうが、まあよいけどね、と許容する気持ちになれるところがあると思えて、逆に、巫山戯ていて、おちゃらけていて、軽薄な雰囲気の文章だった場合、なんか駄目だ、と思ってしまう割合が増えるようにも思えて、たとえ思考が浅くて甘くて温くても、真面目なスタンスならば許し、でもって、真面目であるかどうかを硬さと緩さから読み取っている、というような習性が、やはりあるのだな、と、今回、改めて思った(ンな単純な読解法でいいんスかね?と思った)。

おしなべてモドキ

▼▼××モドキ、というような名称を付けられた動植物が時々いたりする。道具や料理なんかの名称として使われている事例はあんまり見ないかなあ。
▼▼モドキを付けるだけのネーミングは流石に粗雑すぎるだろ、サボりすぎだろ、なんて思ったりもしたのだけど、改めて考えてみたら、人間の認知機能というのは、すべて、未知の物事を既知の情報を使って「××モドキ」として認識しているんじゃないかな、って気もしたので、モドキ、というところに重心を置いて名付けようとしてみせるのって、むしろ正当なのでは、妥当なのでは、って気もした。

絵描きの目の不思議

▼▼錯視画像を使って「目」で遊ぶのがだいぶ好き、と言えるのだけど、絵が描かれ、出来上がってゆく過程をじっと見つめているのも、最近は好きになった。沢山の線と模様と色にしか見えていなかったものが突然「絵」として立ち上がってくる瞬間の、ぶわっ、とした変貌や変質、異化、にも、たまらない楽しさや美しさ、凄さ、があるな、と思えるようになったのだった。目の不思議がここにあるの、気づくの遅れたな、と思っている。この「転換」感覚に気づくのが「絵」が上手くなる秘訣なんだろうな、とも思った。