世界は称賛に値する

日記を書きます

美味しさというものを素晴らしいと思っているなら、美食家や料理人で(あったり、目指してたり、尊敬してたり、しないと、駄目なのでは、って思ってしまうこと)

▼▼普段はそのジャンルをないがしろにしつつ(小馬鹿にする、蔑視、見下し、というような形で「ないがしろ」を捉えそうにもなってしまうところもあるのだけど、別に「下に見る」ということではなく、ぜんぜん気にしない、普段は忘れている、無頓着かつ、無関心、というふうな形で見ることも含む、というか、後者の「どうでもよさ」「気にしていなさ」が、むしろ基本形かも)、時々出くわすスゴイモノの恩恵には、預かる、というのは、なんかズルイ! あるジャンル内にあるスゴイモノ素敵なものから、快楽、恩恵、を受けようとするなら、普段からそのジャンル全体に敬意を払っておけよー、雑な目を向けんなよー。▼▼っていうふうに昨日は頭が働いたのだけど、普段からちゃんと感謝し、敬意を払い、活かそうとしている、素敵だと称えている、もの、からのみ、気持ちよさを味わってよい、という規則も、なんかなー、って思うところは、ある気がする……。
▼▼うーん、積極性、意図、意識、なんかが、つまりやっぱり、分水嶺になるのかな。まあなりそうだなあ。
▼▼積極的に、恩恵に預かろうと、快楽を得ようと、していながら、なんとなく、下に見てる、舐めてる、あるいは無頓着、ぜんぜん意識しないで放置してる、のは、なんかズルイ、って言いたくなるのは判らないでもないし、積極的に雑な語りを、雑な目を向けることを、していながら、時々恩恵や快楽を享受してる、っていう状態に対しても、なんかズルイ、って思えるかとは思う。


▼▼思考の起点が「美味しいものに対して、美味しい!と素晴らしく感じるなら そして、美味しいっていうのは素敵だ! ってもし言いたくなるのなら、普段から「美食」を意識しておけ、「美食」の優先順位と高めておけ、「美食」好きとして振る舞っておけ、料理に敬意を払え」「っていうような思考の背景を持ってしまっているところがある気がするんだけど、妥当性とかどうなんだろうなー」というところにあるので、そこを基準にぼんやり考えてはいる。
▼▼調理が好きなひと、美食を追い求めている人、ばかりが、美味しいと、そして、美味しさは素晴らしいと、言える――そうじゃない人は言えない、と「まで言ってしまう」のは、やっぱり、無理無茶無謀、なに言ってんの? 感が出る、だとは思うなー。でも、そういう空気のことを、たまに言いたくなる、思ってしまうことがなくはない、っていうことに関しての、諸々を、整理したい感じはあるので、書いた。


▼▼単に、じぶんが好きなものが、荒らされてる、好き勝手に扱われてる、搾取されてる、鴨にされてる、ふんだくられてる、ぼったくられてる、のをもし見たら、できるだけ、止めたくなる。可能性だけでも抑制したくなる。▼▼っていう意識は、あって当然だろ、という気はしていて、このあたりとの整合性の上で、語りたい、みたいなのがあるんだろうなー、って思った。そのあたりとうまく絡められないか、って考えたのだろう。

ヒラマサ美味、と、普段は「ないがしろ」にしておく、という問題ありそうなスタンス

▼▼平政、平鰤、などと書かれるヒラマサという魚を食べた。非常に美味しかった。
▼▼美味しいものを食べる、ってことについては、ないがしろにしていた時期がけっこう長くあって、大切にする、重視する、優先順位を高くする、っていうような向きに、素直に「路線変更」できていないところがある。ある、と思っている気がするなあ。▼▼今さらスタンスを変えてよいの? という気分の話だ。


▼▼まあでも、厳密に言うなら、別にきちんとスタンス変更しなくてもよいじゃん、現状のままでもなんとかなってるじゃん、と、内心で思っているせい、な気もする……。
▼▼スタンス変更を公にしておかなくても困らない。普段は「元々の『ないがしろ』スタンス」で過ごしていてもあまり困らない。今でも日常の中じゃ「ないがしろ」にしていることが多くて――基本で、でも、美味しいものに出くわした時には、いつもないがしろにしててすいません、とか言いたくなる程度に、歓喜する。感激している。そういった時だけ「今までないがしろにしてたのミスってたなあ」って思い直せばよい、っていうようなやりかたで、これまでやってこれてしまっているせい、な気がするのだった。
▼▼中には素晴らしいものもある、と理解していながら、その理解を放置していて、つまり、普段は多少見下していて、稀に出くわすスゴイモノに対してだけは、ちゃんと、敬意を払ってみせる――玉石混淆的に時々スゴイモノが混出くわすことは、いちおう認識していて、そういうものに出くわした時だけ、襟を正す、膝を正す、折り目正しく、行儀よく振る舞う、ということに、決めてる、的なスタンスが、許されてしまっている、っていうか、おおきな不具合なく実行できてしまっている、から、まあなんとか稼働し続けてくれているからよいかー、って感じで、ちょっとボロくなった理屈のまま、不完全なところがありそうなスタンスのまま、変えるのメンドイ……、とめんどくさがりつつ、使い続けてしまっている、ようなところが、ある気がする。


▼▼滅茶苦茶駄目な運用をしている話、な気がしてきた。▼▼でも、この構造によるやりくり、いろんなところでやってしまっている気がするな……。

新たなフレーズ。人生は可愛い。

▼▼舞台『メロメロたち』で出くわした「人生は可愛い」というフレーズがけっこう耳に残っている。と気づいたので記録しておこう。「人生」という主語に「可愛い」という述語を付けた時の感覚が、非常に新鮮だった。新たな境地、新たな世界、だった。おそらく思い浮かべたことがなかった。


▼▼新鮮なフレーズが「眼差し」を刷新してくれることと、新たな概念が「眼差し」を刷新してくれることって、微妙に違うなあ、っていうのも気づいた。
▼▼対比としては、初めて「パラダイム」って概念を知った時に、けっこう、世界全体に対する見かたが変わった気がした……、っていう気分のことを考えていた。
▼▼概念を新たに知って導入する、のは、新たな調味料というか未知の素材なんかを手に入れる感覚に近くて、フレーズに新たに出くわして意識するようになる、のは、下ごしらえのやりかたや調理のコツに関する情報を手に入れる感覚に近い……、しかし例外もあるか……、っていうようなことも思った。

量子飲み会

▼▼飲み会だった。行動記録としては飲み会ばっかり記録するねえ、ということを、前回の飲み会の時に書いた記憶があって、若干書きにくくなった気がするのだけど、やっぱり書く。まあ、飲み会というか「人の集まり」に対する特別感覚や異質感覚がまずあり、特別や異質のほうが書きやすく――書きたいと思いやすく、でもって、人の集まりとしては飲み会が多い、ってことではあるのだ。飲み会とじぶんの感覚はまあまあ相性がよい。もしくは、相性のよい「飲み会」概念との出逢いが多かった。
▼▼ひさしぶりに会って、実際に会って話したことで、相手の状況が、量子力学のシュレディンガーの猫のように、確定する。――という時の、緊張感が、年々、ほんの少しずつ増している――増しているかのように意識してしまう世界観を保持している、っていうのが、飲み会でわりと自覚されたりするなあ。あまりよくないものな気もする。▼▼が、ひさしぶりに会って、楽しそう幸せそうで、よかった、つまり「また会えてよかった」、と思えることと、裏表というか、裏腹というか、紙一重、という気もするけれど……。(ほんとうは、この考えかたも、あんまり好きじゃないんだけども……、っていうのも同時に思えてきたので、少し考えてみる)(相手の幸せそうな姿を見て喜べるのならば、相手の幸せじゃなさそうな姿を見て哀しむ?哀れむ?可能性も同時に「ありえ」て――そういうリスク(?)もあって、そういうリスクを取らないなら、幸せそうであろうとなかろうとどうでもよい、無関心、ということになってしまうだろう――、っていう切り口は、まあまあ妥当だとは思うのだけど、あまり好きじゃない、のだ。なんか避ける手ありそうじゃない? という無茶を思っている)


▼▼結局ボードゲームを推したし、ちょっと推しすぎた気もするし、ともあれ、今度遊ぼうという話にもなって、よい感じではあった。遊ぶ。

ソフトとハードが両輪となって進化(というのがいっぱいあるんだろうけど見逃している)

▼▼ソフトウェアとハードウェア、それぞれの進化が、段階的かつ相乗的に「よさ」を増していく――より使いやすい、有益なものになっていく。ということを、コンピュータの性能の向上と、OSのバージョンアップ(0から刷新されるようなメジャーバージョンアップ)の、噛み合わせを見ながら考えていたのだけど――判りやすい事例として眺めていたのだけど、コンピュータに限らず、こういう進化が各地で起こってきたんだろうな、とは思った。
▼▼日常的な道具とか、専門的な工具とか、店舗の配置とか、企業の運営方法とか、いろいろなところに、こういった「構造の変化」はあって、でも、コンピュータみたいに判りやすくない(バージョンナンバーとか書いてないし)から、あんまり気づかないまま来てるんだろうな、って思った。OSアップデートに値するものが、個人の認識内とか、人類の世代的な認識内、にあるようなこともあっただろうし。

普通のことを書き、特殊なことを書き

▼▼ある人にとって特殊なことが、ほかの人にとっては普通のことだったり、じぶんの中の普通が、人様には特殊だったり、する。特殊な経験だから書いたら面白いだろう、って思ったり、普通のことだから書かなくてよいかー、って思ったり、した時に、このあたりのことの、関係性や構造の難しさ、のようなもののことは、考える。ぶつかる。
▼▼言葉にする意味、言葉にする価値。わざわざじぶんが言葉にすることの、必要性や有効性。▼▼線引きできるか? 判らないぞ……、と思えてくる。



▼▼とはいえ、じぶんの中での特殊なこと、じぶんの中での普通のこと、というところの境界線は、まあ、ある。あるだろう。疑わしい点、勘違い、などもあるにせよ、線引きがないということはない。皆にとってはごく普通のことだろう、と思えるけれど、じぶんの中では特殊なこと――とりあえずじぶんにとっては初対面かつ初体験、と、思える。
▼▼脳内に出てきた、物珍しくて、新鮮味のある、特異な、渦巻き模様や変梃ポーズ。



▼▼書くことを正当化することは、たいてい、できるだろう、と考えている。社会的に貴重な経験から来る稀少な言説は素敵である(特殊なことだから書きましょう)って言えるし、君が普通だと思っていることであっても人様から見たら普通じゃないことかもしれないのだから書く価値はあるよ(普通のことでも書きましょう)とも言える。あるいは、普通なんて、常識なんて、ないんだ、という言葉でも、論破できたりする――納得ゆく説明文を構築することはできる。
▼▼しかしそこに欺瞞がある、と、看過してみせて――
▼▼あるいは、如何なる言説も、世界に必須なわけじゃない――君がここで言葉にしようがしまいが、世界はそう変わらないだろう、と嘯いてみせて――
▼▼または、特殊と普通の線引きなんてほんとうに可能なのか? というか、特殊と普通という線引きの中に「書こうと思ってよい」ということを決めるための根拠なんてほんとうにあるのか? と疑ってみせて――
▼▼とにかくそうして、前述したような「正当化のしかた」を却下してしまうことも、しかしまた、可能だろう。如何なる言葉も書かれるに値する、という判断に抵抗してみせることも、可能だ。言語化無意味側に立脚してみせたくなる場面もある。



▼▼そのことを、いちいち、わざわざ、書くの? 
▼▼それとも、書かない? 書かないほうがよい?
▼▼というような、問いの空間――疑問文たちに対して、結局、なんだって言える、って思うのだ。どうとだって正当性を謳えるじゃんか、って思える。言いかた次第だろ、って思える。
▼▼どちらの「回答」も「正しそうに言える」。だから、こういう正当性を持っているからじぶんは書いてよい、と思ってもしょうがない気がするし、こういった難点欠点問題点があるから書いてもしょうがないじゃん、と言ってもしょうがない気がする。▼▼まあ無論、多少は「思わざるを得ない」とは思うのだけど、それでも「思ったところで実はそれほど価値や意味はないだろう」と、感じる。
▼▼だから「じぶんで選ぶしかない、のだ」「君が書きたいなら書けばよいし、書きたくないなら書かないでよい、のだ」なんてふうに(次の段階の言説であるかのように)言ってみせたくなる面もあるのだけど、こういった言いかたも、実際は、それほど好きなものたちではない。それはそうだ、そうれはそうだが、しかし、それもまた、結局、選ぼうと選ばなかろうと――欲があろうとなかろうと、やっぱり「同じように意味などない」のではないか? という感覚は、残るからだ。▼▼あなたの意志に――あなたの欲に、そんなに意味がある? それらで「選ばれる」ことにそんなに価値がある? 
▼▼まあ、選んだら世界(世界観?)は変わるのだろうけれど、でも、選んだって事態は変わらない、とか言える感覚かな。▼▼とは言いつつ、でもさあ世界観が変わるならよいじゃん、というのもなくはなくて、でも、いやほんとうにそれだけで――そこの変化だけで、よい、っていう言葉を使えるようにしてしまってよいのかな? って、思ったりもするのだった。
▼▼できることだけやって――やれることだけやって、よい、と、したり顔で言い張ってしまっていて「よい」のか?



▼▼このあたりの混線、ふらつき、世界の重ね合わせ、みたいなものの上を、ころころ舞いながら、転げながら、頭止めたり動かしたりしながら、なんかしら、してればよいのではないのかなあ、というようなことが、根源的に思っていることのような気は、する。こういう面で、人間の「頭」を「躰」が超える――身体性が思考を超えてゆく、というような話が、出てくるんじゃないか、って思ったりする。思考ではどうにもならないので(矛盾が解消できないので)思考じゃないところで、なんとかする。



▼▼どちらかと言えばもっといろんなひとたちに、もっといろいろなことを書いて欲しいし、今読ませてもらっている書き手の方達の文章も、もっと読みたい、もっと書いて、ぼくにとっては価値があるんです、と言いたい。あと、こういうふうなことを書いて、書き手の人達が、また書こう、また書いてよいのだ、書きたい、と思ってくれるなら(そういう未来を呼び込める方策がなにかしらありうるなら)、それがよいのは間違いないし、だから自分勝手な部分含めてそれをやってしまうし、そのための何かを時々でもよいから書かねば、って思ったりする。でも、それらを訴える意味のなさ、しかしそれでも、そういうしかないじぶんの限界、などの問題もあり、じぶんが文章を書いててもしょうがないんじゃ、みたいなことについても、同じようなことを思う。正しさ、欲、好き、から攻める攻め手も、使えるけど微妙に使えない。でもまあそのへんでフンフンやってればなんかしら伝わることも、醸し出せるものも、あるだろう。なんかまあ、そういうの狙いではあるんだけど、ほんとうにそういうのを狙っているのかな、っていう疑問も残る。それくらいがちょうどよい気もする。