偉いのか

▼▼世界にとって強い存在(重要な存在/大切な存在)だ、といった印象を、じぶんに対して抱けるかどうか、っていうことが、自己肯定や自己承認や自己満足、幸せ、において肝心だったり核心だったりするのでは、と、少し思った。自己肯定感というよりは、世界肯定感、のほうが、影響がおおきそう?というか……。自己による肯定の問題って世界からの肯定をいかに見つめているかっていう問題に置き換えられたりするのでは、というかな……。世界をいかに「じぶんを肯定してくれるであろう論理や都合を持つもの」と見做せるかどうか、とも言えそう……。というのは、宗教や信仰の話になりそう、とも思い始めた。
▼▼偉い、偉そう、といった評価軸が、前述したような、世界において強い、という状態や状況を意味しているところがあるんじゃないかな、と思ったのが、このあたりの思考の手始めであった。偉そうにされるのなんでこんなに嫌なんだろうか、といった不満印象も思考の補助線だった。
▼▼偉い、という評価軸は、おおもとは「社会において強い存在」や「人類において強い存在」を意味していて、ここから比喩的に「世界において」という形状でも使えるようになった、のかな、とも思った。