世界は称賛に値する

日記を書きます

このことばを聞いて安心するがよい、安心してよいよ、なんて思わせる言葉の天敵くらいの場所にいたい

 いろんなやり方がある。あるものだなあと思うことは数多い。なので──なので、で繋げていいかなあ、とは思いながら──誰もが自分にやり方を持っていてよい、とは考えてみる。そう考えるのが好きかな。誠実さ、そして正確さ、を基準にして問うなら、違うかも駄目かもだけど……。そして同時に、一つのやり方にこだわらないとよい、というのも思う。このやり方がすべて──これがすべてだ、って思わないとよい。なんでそう思うのかな、っていうのは、考えてみるとおもしろそうだ。
 何を信じたいと感じているのか。何を信じたくないと感じているのか。そのあたりを問うていくことになりそうで、それがおもしろい。そういう疑問文を作るのが好きすぎるなあ自分は。
 話題飛躍するけど、正しいやり方なんてない、という話は、なんとなく、まあ、好きじゃないなー、と感じる。わかりやすい答えがあると思うこととわかりやすい答えなんてないと思うことは、なんか、どっちも好きじゃない。単純化という要素と、安易にすがることを許すようなカリスマ的な要素を持つ文言と、が、おおむね好きじゃない、って感じだ。ちゃんと考えよう、考えなさい、という思想はやっぱり持ってしまってるなー、って思う。だって、それが、自分の人生をよくしてきた、と認識してしまっている。認識するようになってしまっている、からだ。錯覚かな、幻想かな、っていうのは思う。が、思うものは思う。そういう回答が最初に検索されてしまう。とはいえ、思うものは思うのだからしょうがないじゃん、って話だって全然好きじゃないけども。
 最初の話に戻るけど、やり方、って、これが答えだよー、という声を、やっぱり、ちょっと、ある程度は、持ってしまうよなあ、と思った。やり方を見つける、見つけたよ! っていう時に、答えだー、って感じの雰囲気は、なんか、ちょっと、混ざってくる。というか、混ぜてしまうところはあると思った。
 あと、答えを出す、ってことと、答えじみたものをとりあえず出してみる、ってことは、全然違うような、けれど結局はそれでしかありえないような、あるいは、厳密に区別できるような、しかし結局同じものになっていくような、そんな感じがある、かなあ。答えっていうのは、見つけられた瞬間だけ、具現化した瞬間だけ、「答え」で、そのあとすぐに、現実にさらされて、実験や実証、検査や検証にさらされて、次の答えの材料にされてしまう、みたいな。発見した瞬間の一瞬の快感だけが「答え」と呼ぶに値する、みたいなことを言いたくなるような気もするが、適当言ってる気もしてきた。