世界は称賛に値する

日記を書きます

右往左往ではなく浮き沈みの中もがくイメージ

▼▼芸術関係の物事に対しては、見えていなかった世界の姿、見慣れてしまって見えなくなっていた世界の姿、などを見せてくれるものである、と思っているところがあって、見慣れなさのほうに向かって同じところをぐるぐるしているのだ、といった運動イメージで新鮮味と忘却の話を捉えてみるだけでなく(というような運動のことを、昨日の日記では書いた)、難しく考えず、深く考えず、気を抜いて油断していると、人類誰しもが引き寄せられがちなほう、から、離れていく──引力に逆らってみせる、といった運動イメージにより、新鮮味と忘却の問題を見つめてみても、よさそうでは? って思った。行ったり来たり右往左往しているイメージ、ではなくて、沈みつつも頑張って浮いたり下がったりしているイメージ。
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フォントのまわりをぐるぐるしている

▼▼見慣れて見飽きたフォントを眺めながら、よりよいものがあるんじゃないか、と思い立ち、綺麗なフォントを探し始めてみることがあるのだけど、おお!素敵じゃん!なんて思って立ち止まってみたところが、だいぶ前に使っていた既知のフォントのところであることって多くて、結局、よさを高め続けている、んじゃなくて、慣れと飽きを忘れながらぐるぐる回っているだけか、と思わされていたりしていたりもする。向上した気に、上昇した気に、なっているのに、同じところを回っている。▼▼忘れられてまたよさが見えてくる。忘れないとよさが見えなくなっている。見慣れないことをよさであると勘違いしている?
▼▼センス。感性。感受性。審美眼。あたりの言葉が関連語として浮かんだ。このあたりの問題だろう。つまり真善美の中では「美」の問題と捉えられそうかな、とも思った。美醜の物差しを前にしながら「気にしてしまうところ」と言えそうである。美醜の判定には慣れと飽きと記憶が関わってくる。真贋の判定、や、善悪の判定、なんかだと、あんまり関係してこなそうだ。とか言いつつも、善悪については、飽きたから悪気味、とか、無意識に思っているところもありそうだけど……。


▼▼というぐるぐるを、突破する術が、打開する道が、ある、と思っているところもあるなあ、って気がしてきた。ぐるぐる回っている最中に、ある知識、ある体験、に出くわすことができれば、次の段階や別の領域に、進める、んじゃないか、と期待しているところがある。経験則的に思っている気もする。不意にジャンプすることができて別のぐるぐるの中に飛び込める瞬間があった、と記憶している。
▼▼ジャンプできる瞬間の気持ちよさ、を知っているから、また同じところに戻ってきてしまった、と思った瞬間に、あーあ、と残念がってしまう。最近また思ってしまう瞬間があった。というのが切っ掛けになって、この日記が書かれた気がしてきた。なにかを不満か不安に思って書き始めた気がするんだけど、なんだったっけ、ということが途中から判らなくなってきて、改めて整理せんと舵切りしていたのだった。
▼▼フォントまわりだとまだぜんぜんジャンプできていないなー、という愚痴である。


▼▼忘れたのちに改めて再会した場合、と、完全に初めて出会った場合。一口に新鮮味と言っても、二つは違うはずだろう、とも思った。新鮮味を覚えられたことで美しく思えてしまったり楽しく思えてしまったりする、ということを問題視したがっているような切り口になっていたけど、異なった問題として見做すべきじゃない?と思った。新鮮味に難点や欠点を見出すなら、忘れる、のほうが駄目そうだな、って思った。駄目そうというかコントロールが下手だと困ることが多そう。

断言の中に例外が含まれているかどうか判る前置詞

▼▼正確かつ丁寧に書こうとしたせいで文章が長くなることは多々あって、長くなることにより論理が荒れることも多く、読みづらさも増しがちであるため、文章は短いほうがよい、端的、簡潔、言い切り、がよい、と推奨されたりもする。ほとんどそう言える、という場合ならば、なおさらだ。すぱっとした言葉に誘われていることが多い。
▼▼っていうようなところで、不正確さ、が出てくるのが、あんまり好きではないかと思う。くどくなったとしても正確に書きたいぞ……! というような欲があるのだ。あまり関係ないとしても──現状の範囲内では特に触れておかなくてもデメリットは出てこないにしても、十全でないならば、十全でないよ、いちおう稀有な事象もあるようだよ、とは触れておきたくなってしまう──視野の中にあることは伝えておきたくなってしまう。防衛も見栄も含めてである。
▼▼というような欲望の中で、英語における前置詞のaとtheで「一般的なものを見つめている雰囲気」と「特定の事象を見つめている雰囲気」を見分けうるように、断言のような簡潔な物言いではあるものの、別に十割ではないよ──百%ではないよ、ということが瞬時に判別できる一単語があればよいのに! なんてことを思った。▼▼××は○○なのであるnasi、と、××は○○なのであるari、だけで、例外の余地ナシ、例外の余地アリ、が感得できたら楽ちんなのに……、とか思った。例外の割合によってbzとbxというふうに更に区別してもらってもよい。

繰り返しの中で、ほんのちょっとずつ、洗練を蓄積してゆく

▼▼慣れて飽きて投げ捨てられたような流行が、すっかり忘れ去られた頃に、改めて「新鮮味を味わえるもの」として、人類の前に立たされる。同じ流行がまたやってくることがある。▼▼ということに対して、同じことの繰り返しなのでは──濁りや澱みだ──人類は足踏みしているだけなのか、なんてふうに思っていたところはあった。
▼▼のだけど。
▼▼再流行の時には、前回の流行の時に行なわれていた「洗練」が、いくらかは混じってくるはずなんじゃない?という気づきが今回はあって(今回まであんまり整理できていなかったようである)──おのれを納得させられたところがあって、あったので、ぜんぜん前に進めていないぞ、濁って澱んで腐ってっているだけなんじゃ、なんてふうに思い詰めなくてもよいだろう、とは思えてきたりはした。
▼▼確かにぐるぐる回ってはいるけれど同じことを繰り返し続けている「ループ」ではなく、わずかであれ高さなどが変わってきている「螺旋」なのである、という説明を聞いたこともあって、この説明に対して、ほんとうに螺旋と見做してよいのかな……? と不安に思っていたところもあったのだけど、今回気づけた「洗練」の蓄積の情景によって、螺旋と見做すことが可能になりそう、って思えたところもあった。

正論と印象論(理系文系)

▼▼「正論」は理系にまつわる言論で、「印象論」は文系にまつわる言論?っぽい? とかいうふうに思ったのだけど、改めて「文系と理系/文科と理科」っていうカテゴライズについて調べてみたら、世界的な基準では(驚くほど、まったく)なくて、日本だけが勝手に採用している粗雑な基準(しかも、利便性のために勝手に作ってしまった基準)のようだったので、ここにある違いを見極めようとして脳内で細かく調整してみても、あまり意味ないかもなー、って思った(切れ味のよい結論がたとえ出せたとしても、結局、勘違いの残り香が凄そうだ、って思った)。

ボブジテン、タイムボム、ディクシット・レヴェレイション、カルバ・カードゲーム、で遊んだ(白色ボードゲーム会)

白色ボードゲーム会 2018/04/08

▼▼比較的珍しい人達と遊ぶ機会が出来た。というような文言が書ける瞬間が最近は多少増えてきた気がする。珍しい人達であっても、遊んでみよう、遊んでみたいぞ、といった意志の顕れが増えてきたのだろう。巡り巡って縁が増殖し始めた雰囲気もあるかな。とはいえ、今日の顔触れが続くかは微妙かなあ。ボードゲームの紹介も兼ねた会だった。呼びかたとしては白色ボードゲーム会になる。楽しんでもらえていたならよい。また遊ぼうと言ってもらえたら嬉しい。▼▼途中で抜けた。というのもあって、ばたばたしていた雰囲気はあった。写真も撮る余裕があまりなくて、多少残念だった。
▼▼『ボブジテンその1・その2』→『タイムボム』→『ディクシット・レヴェレイション(拡張)』→『カルバ・カードゲーム』という順番で遊んだ。ボードゲームというものに引き合わせるためのラインナップとしては比較的よい出来だったんじゃないかなあ。今回の評点は「引き合わせた時の手応え」が基準になっているところはある。
▼▼『カルバ・カードゲーム』がかなり素敵だったな。評判を聞いて買ってみたのだけど、ほんとうによかった。『ディクシット』は七番目の拡張を混ぜて遊んだのだけど、あいかわらず素敵な絵柄だった。新イラストレーターの絵柄は非常に好きである。

ボブジテン その1・その2(その2は初プレイ/5人)

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(最大【10】点中、範囲としては【5~9】点の雰囲気があり、本日は【7】点)









タイムボム(複数回プレイ済・アークライト版/5人)

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(最大【10】点中、範囲としては【6~10】点の雰囲気があり、本日は【9】点)









ディクシット レヴェレイション拡張(拡張はプレイ3回目/5人)

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(最大【10】点中、範囲としては【5~10】点の雰囲気があり、本日は【9】点)









カルバ・カードゲーム(初プレイ/5人)

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(最大【10】点中、範囲としては【5~9】点の雰囲気があり、本日は【7】点)


タイムボム

タイムボム

ディクシット:レヴェレイション 多言語版

ディクシット:レヴェレイション 多言語版