世界は称賛に値する

日記を書きます

変わりにくいものを、例えば「本質」と見做したくなる感じ

▼▼時代や文化や流行、あるいは、物理現象的なものによって、比較的あっさり変わるもの、と、変わらないもの/変わりにくいもの、が、あるのならば、変わらないもの/変わりにくいもの、のほうを、大事だと思ったり、本質だと思ったり、真善美だと思ったり、まあつまり、優先させておいたほうが、傷つきにくくなる、困らないでいられる、楽しい、といった事柄があるなあと思っていて、装飾と構造とか、実務と理念とか、服装と精神とか、具体と抽象とか、このあたりで見かける「内側が素敵!」という雰囲気って、こういう問題も絡んで出てきているんだろうな、と、最近は思っている。

一人だけ特別なのはちょっと(二人ならよい)

▼▼物語の中で「前例は一回もない、誰にも達成できたことはない」と語られていたことが主人公によって華麗に達成されたりすると、いやいやご都合がよすぎるのでは? って思ってしまう癖があり、逆に、ご都合主義的な偏りが見られたとしても「前例はあるよー、ほかにも少数だけど達成できた人がいるよー」というふうに描かれていたのであれば、主人公が華麗に達成してみせたとしても、まあならしょうがない、納得はできる、変ではないだろう、って思ってしまう癖が少しある、っていうことに関しては、なんか嫌だな、直せないかな、と思っているところがある。

現実にあることを知ってなおリアリティなし的な認識を持っていることが

▼▼現実にも稀にはありうるような幸運や精神が、小説に描かれていたような時に、うーん、こんなのありえますかね? 変では? 納得できない……、いやまあ「ありえる」ということが物語にとって必須ではないにしてもだよ、流石にやりすぎじゃない? とか文句言っているようなことはあって、このあたりの整合性の甘さに関しては、うまくやりたい、って思い直していることは、多い。

モンスターの弱点法則を察知

▼▼ゲームでのモンスターとの戦闘なんかにおいて、水属性モンスターは雷が弱点、炎属性なら水や氷が弱点、アンデッドなら炎に弱く、機械ならやっぱり雷で、爬虫類に対しては氷だ、っていうような前提がいつの間にか出来てはいるのだけど、このあたりの理解に関して、現実からの観察で推察できるのかな? と思うことはあって、まあつまり、いま初めて「ゲーム」というもので遊ぶよー、というような状況になったとしたら、ぼくはこのあたりのことに気づけるんだろうか(まあ弱点という概念は理解しているとして)、と思ってしまうのだ。蓄積されて出来たものなのか?と思ってしまう。初めて遊ぶ人に察知してくれるであろうことを期待してよいのか?と思ってしまう。
▼▼現実の中にこういった法則や構造に気づける経験がほんとうにあるのかなー、現実から吸い出せる知識がこのあたりのものとは異なってくる可能性だってあるんじゃないかなー、といった疑問を立てることは当然できる。
▼▼とはいえ、確かに水で感電はするし、炎は水や氷で鎮火するし、死は炎で浄化される印象もあるし(と言うなら、聖水というものもあるはずですけど、これって実際、ゲーム世界にはあんまり反映されてなくないですか? なくはないですけど)、機械だって雷で壊れてしまう印象はある。うーん、でも、爬虫類が寒さに弱い、というやつは、若干、気づきにくそうな気もする、な……。知識としては薄め、というか、経験として少なめ、という雰囲気。▼▼あと、例えば「爬虫類モンスターが氷を弱点にしていない」ゲームというのも多々あるわけで、あ、ここの関係性はゲーム内には組み込まれていないものなのだな、と、一回、何かのゲームで思ってしまったら、次からは想定しないようになってしまうんじゃないか、っていうのは思える。
▼▼細かいことを言うなら、アンデッドに対する聖水から来ている「水属性が弱点」ってあんまり適用されてなくない? というのを思って前述したわけだけど、ヴァンパイアなんかだと「流れる水に弱い」っていう明確な知識があるにも関わらず、実際にヴァンパイアに水属性が弱点設定されていることって少ない?んじゃない?という気はしている。
▼▼というような恣意がある中で、察知できるかどうかなんて、微妙なところだろう。


▼▼とは思いつつ、水には雷、機械にも雷、くらいは気づいてもいいんじゃないか、とは思ったりもしている。人様のプレイを眺めながら思ったりしていることはある。
▼▼といったあたりの、気づけるだろう、判るだろう、という期待の、範囲、期待してよさそうなところと期待するのはヒドイところ、という線引きのしかたと程よい高さのことは、考えてしまうことが、多い。まあ、総括的な話としては、慎重さと敬意と言葉使いの話、にはなってきそうだけれど……。



▼▼ドラゴンクエストってこういった属性や弱点といった要素があまり強くないので、日本のロールプレイングゲームの主流の一つであったドラゴンクエストが「弱点」というものを学ばせてくれないものであった以上、想像しづらくなってしまっている、というのはまあ、しかたがないのかな、と思っているところもある。属性や弱点というものは(ドラクエと対比させるなら)ファイナルファンタジー派の世界観、という印象だった。特にじぶんの年代だとそうなる気がする。
▼▼こどもの頃は弱点にぜんぜん気づけていなかった、というのも思い出した。人生経験の不足によるものだった、とは言えるだろう。世界の因果や法則に関する経験が少なく知識が蓄積できていなかったせいだ。といった「知識量」が影響してくるのは間違いないため、誰でも気づける、誰でも推察できる、ということではないんだよな、ということは改めて思った。こどものころのじぶんにはぜんぜん期待できなかったな、って思った。まあ世界を経験と知識で覆おうとした時に、ムラが出来るのは当然なので、ムラありきで経験則を打ち立てないと駄目じゃん、という実感はやっぱり湧いてきた。
▼▼世界を構築している法則が五行思想になると弱点の法則だって変わる、っていうのは経験もあって、如何なるものが弱点になるか──を如何に読み取りうるか、なんて、一概に言えたものではないんでないか、というのも思えてきた。四大元素と五行思想で「読み取るに値する法則」が変化してくるのは面白い、とも思った。
▼▼なんてことも踏まえると、現実から読み取れるんじゃないの? っていう期待は、無茶や無謀な気もしてくるのだよなー。でもまあ、多少は気づける気も当然する。ぜんぜん気づけないということはないだろと思ってしまう。事前知識なし、予備知識なし、で、如何なるところまで気づけるか、っていうことを考えるのは好きなのだ。まっさらな認識で世界を眺めた時の気持ちが(精度は低いにせよ──精度を上げようとしているのがこれらの思考であるにせよ)がシミュレートできるからだろう。
▼▼あと、雷属性って弱点少ない雰囲気でなんか狡くない? とは時々思っている。光属性の気配すら少し漂ってるし……。

落胆は胆が落ちるのか胆に落ちるのか(腑に落ちたりもする)

▼▼腑に落ちると落胆は同じ意味であるかのような見た目である。▼▼ある文章が熟語に変じる時に切り落とされてしまう助詞、と、熟語から文章的意味が忖度される時に想像させられる助詞、のことは、意識しがちだ。フォーカスを当てるのが好きだとも言える。熟語を構成している「漢字の上下」の違いにより如何なる意味の違いが出来ているか、というところも、好きなフォーカスの当てどころだったりする。
▼▼文章の助詞等をぶった切って、漢字二文字にすることで、二字熟語に出来る。ということの中にある乱雑な「切り落とし」と「接合」が、人類や言語にとって、必須なんだろうか?とは少し思ったりしている。熟語がなければ人類は生きてゆけないのか? とまでは言わないにせよ、熟語が無ければ困ることが多い? のかな? 効率に問題が出る、とは言えたりする? まあでも効率面だけじゃなくて基本的に人類は熟語欲のようなものを持って生まれてきているようにも見えるけれど……、とも思った。