世界は称賛に値する

日記を書きます

木曜日の始まり

▼▼好きだって言葉を掌の上で相手に見せるだけで万事オッケー皆々様幸せって言うなら楽だけど基本的には全然駄目である。難しいなあと思う。けれど、誰かを大切に想う型の関係を都合よく単純化しまったら終わりだよなあ、とも思うので、面倒臭がって怖がって楽に伝えさせてよー、と欲する判断は棄てておく。棄てきれないだろうけど可能な限り除けておく。覚悟の話にするしかないのかなー? 誤解を怖れず伝える覚悟──、なんて位置で完結させてしまうのも、好きじゃないのだけどね、というのも思うのだった。
▼▼起床時刻は午前7時。勤務開始は午前9時。ほんと、じわじわくるのは良し悪しだ。

昨日読みました。感銘の記憶と忘却対策的記録簿というところです。

→ 「経験を持ち出されると抑圧されているように感じてしまう時がある」

→ 「暗黙知的スキルを方法として定義することに興味があるのかもしれない。そういうアプローチはマッチョな思想によって黙殺されることが多いと思う。でも、本当にわからないひとの「わっかんないよ!」というきもちは救済してあげたい、してほしいというのが人情だと僕は思う。これは学問であり、宗教だ」

→ 「報われるかわからない努力と、報われるはずの努力を、選択できるべきだ。どちら寄りでもそれぞれの価値があるはずだ」

→ 「多くのラカン入門が書いていることは、ラカンの言っていることの要素のひとつひとつであって(それだってとても重要なことだけど)、それによってラカンが掴もうとしていることの核心は、そこにはないんじゃないかと感じる。ラカンはもっと大きくて、遠いものへと向かっている。とはいえ、ジジェクはジジェクで面白いし、コブチェクもスタヴラカキスもすごく面白いのだが」

→ 「ちょっと脱線した。一段落戻って、重要なのは、ぼくが掲げる平等性は、「他者を真に理解せんとするための」平等ではなくて、「他者の誤解をゆるさんがための」平等性だった」