▼▼思考を必要としない文章、の、素敵具合を判定しかねている。判定の必要があるかなあ、という疑念が、躊躇している理由の一つだろう。あと、思考を必要としない、という形容の稚拙さと曖昧さに呆れているところもありそうだ。▼▼けれど、思考を必要としているか、していないか、というのはまあある。結構感じ取れるかな、って思う。おそらく境界線は「手癖」あたりにあるんだろう。慣例的で判断済みな手垢にまみれた理路を駆使しているか否か──と感じてしまうものを使っているか否か。▼▼けど、普通かつ地道にしみじみ語っていても、突然飛躍することだって、沢山あるから、特別な不満とか批難とかはない。むしろよいと思う。無理せず語って滑走路にしてしまえみたいに思える。
昨日出逢った。踏まえて生きていきたい的な感じです。記憶インデックス。
→ 「単語の選びかたには細心の注意を。特にイメージが積み重なっていくような書きかただった場合、それに反するような単語をひとつ入れるだけで、全体のイメージが混濁してしまうおそれがある」
→ 「ある傑作を堪能したら、次は新たな傑作を求めてさまよい歩く。それが、フィクションを悦びとする多くの人の習性です。ただ、そのわりには、『紫色のクオリア』はあまりに長いあいだ話題に上り続けていました」
→ 「そういった意味で、やっぱり言葉ってのは指針というか、羅針盤というか、そういったもんなんだろうなあっと。感情+無意識補正なんか、度がきついメガネかけた自信過剰な方向音痴みたいなもんなんだから」
→ 「最終的に”お互いを理解しようと試み”たこと自体をよすがとして、関係性は構築される。でも、それが本当に相手を理解できたわけではなくて、ただ理解しようとしたことを信じるのみであるという認識を感じます」