世界は称賛に値する

日記を書きます

誰かの精神を想像する機能

▼誰かの精神を想像してみる。誰かを『おのれ』と同じものとして想像するのはひどく難しく、同時に、誰かを『おのれ』と違うものとして想像するのもかなり難しい、と改めて考えていた。時おり誰かの精神を想像してみることがあるけれど、いくら頑張っても想像は粗雑で杜撰なものになってしまうなあ、ということについて考えていたのだった。人様の精神は明確には掴みえないものだからだろう。情報が少すぎる、とも言える。断片から明確な全体像を想像するのは難しいものだ。だから粗雑で杜撰になってしまうのだ、とか考えてみたのだった。▼誰かの精神を『おのれ』と同じものとして想像するのはひどく難しい、について再び考えてみる。粗雑になってしまう、なんて表現が連想された。誰かの精神を想像する時、途中で怠けて深遠部や繊細部を適当に捏造してしまう、なんて表現に翻訳することも可能だった。深遠も繊細も、精神にはありうる。粗雑な描写では描ききれない複雑さが精神にはありうる。おのれの精神を観ていてそう思えるようになった。にもかかわらず、精神が複雑なものでありうることを、誰かしらの精神を想像する時には、何故か時おり忘れてしまうのだ。怠けてしまう、とも言える。▼誰かの精神を『おのれ』と違うものとして想像するのも難しい、について再び考えてみた。杜撰になってしまう、という表現が連想される。誰かの精神を想像する時、途中で怠けておのれの精神のコピーを素材にしてしまう、なんて表現に翻訳することもできた。まったく違う形状が、精神にはありうる。おのれと同質のものからは算出できない異質さが精神にはありうる。さまざまな経験からそう思えるようになった。にもかかわらず、精神が異質なものでありうることを、誰かしらの精神を想像する時には、忘れてしまったりするのだ。怠けてしまう。