世界は称賛に値する

日記を書きます

既存を乗り越えるもの、と、既存に囚われないもの

▼限られた中でがしがしあがきまわった結果生まれたもの、と、垣根のないところで自由奔放好き勝手に動いてみた結果生まれたもの、という二分法で『発想』というものを区分けすることは、できるように思う。想定していたのは、ドラゴンクエストやらファイナルファンタジーやらを否定することで生まれた、という『マザー』と、あんまりゲームとかやらないんだけどもおもしろそうなことやってみたらできたよ、という『Xi』だったりする。▼マザーが素地にした『否定』というのは、もちろん侮蔑とか軽視とか駄目出しとかではなくて、すでにドラクエやFFはあるわけだから、今度は違うところに行ってみようぜ、というような気持ちのことを指しているつもり。▼すでに存在しているものを乗り越えようとすることで生まれる新規発想、と、あんまり詳しいことを知らないおかげで生まれる新規発想、について考えていたのだった。というか、これについては、ものすごく前から考え続けている。正直掌握しきれないせいだ。こちらのほうが優れているのだ、とも言えないように思うし、そのせいで、とりあえずはこちらを重視すべきなんだろう、と判断することもできないように思う。とにかく手の出しようがない、のだ。比較する術がない、というのが最大の問題なのだろうな、とは思っている。比較する術がないのは、無論、往来が不可能だからだ。知ってしまったら知らないことにはできない、ということである。どうにか整理したい、とはずっと思っているのだが、事例が大量すぎて――つまり複雑すぎて、現状ではそれもほとんどできていなかったりする。▼簡単に言うならば、乗り越えて生まれたものも、純粋によって生まれたものも、どちらも『素敵なもの』が多いので、なんとも言えないなあ、というような気持ちを抱えているのである。▼というかそもそも、知っている、とか、知らない、というのはなんなんだ、と改めて思った。明らかに相対的なものじゃん、と思ったのだ。誰だって大抵は赤ん坊よりは知っているけど研究者よりは知らないはず、だからだ。けれど、考える。でもって、考えるとき、赤ん坊よりは乗り越えて考えるだろうし、研究者よりは素朴に考えるんじゃなかろうか、と思ったわけだ。というような思考を推し進めるなら、誰だって両者を同時進行するしかない、というか、どうしたって同時進行と言うべき状態になってしまうんじゃないか、ということになったりするわけだけど、たとえ『同時進行』といっても、うまいやりかた、と、だめなやりかた、があるだろうと思ったりするわけで、きっと私がはっきりさせたいのはそのあたりなのだと思う。なんにせよ、どちらかに偏ってしまうのはよろしくない、ということは、あまり迷うことなく考えているらしい。▼まずは長所短所をはっきりさせてみたらどうだろう、なんて考えていた。しばらくはちょっとそれを考えてみようかな、と思う。