世界は称賛に値する

日記を書きます

好き勝手が許されていても、決めるのはあなた

▼状況とか場所とかを正当化の根拠にするのはあまり好きではない。逃げている気配を感じてしまうからだ。外部に正当化の根拠を置くことで、だから俺は悪くないんだ、なんて叫んでいる気分になってしまうのだ。正当化の根拠はおのれの美意識だとか誇りあたりに置いておきたい、と普段から考えている。責任を負うというのは、おおむねそういうことなのだろう、と思うからだ。美しいと私が思うから、良いと私が感じるから、正しいと私が信じるから、私はそれを行う、とか躊躇なく言えるよう生きていきたいなー、と考えているのだった。▼かつて、クリエイターは責任もって批評を受け入れろよ――その程度で潰れてしまうような奴は駄目なんだ、という発言を思い浮かべてしまったとき、おのれの思考の裏にあったのは、要するにインターネットっていうのはそういう場なんだから好き勝手言っていいだろ、という気持ちであって、俺の好き勝手な発言で誰かが傷ついて時には潰れてしまうことさえあるかもしれないけど俺はそういうことを無視して好き勝手に発言することが正しいことだと信じるぜ、というような覚悟ではなかった。ということに気づいてしまった。状況と場所のせいにしていたのに気づいてしまった。だからもう粗雑な悪罵は言えなくなった。言わなくなったし、言う気もなくなった。ここは粗雑な悪罵も許される場所なんだよ、という許諾がどうでもよくなってしまったのだ。好き勝手にしていいとか知らん、たとえ『羊を好き勝手に殺していい牧場』があったとしても、羊の世話をしている羊飼いが哀しそうな顔をしているなら、私は羊を殺さない、なんて考えられるようになったのだ。羊を殺さなければ羊飼いに伝えられないことがある、という意見を見かけることもある。もしかしたらそうなのかもしれない、とは確かに思う。確証は求められないところにある意見だからだ。正しい可能性はどこまでもありうる。けれども、私は信じる。信じたいと思う。わざわざ羊を殺したりしなくても同じことを相手に伝えられる言葉がどこかにあるはずだ、と信じる。言葉をなめんな、とも思う。無論自戒である。