世界は称賛に値する

日記を書きます

たとえばなしの突破力

 比喩の強さ、に最近はよく憧れる。比喩が持つ『強烈な突破力』は本当に素晴らしいものだなあ、なんて感嘆させられることが多いからだ。比喩というものが心に与える影響の強さ、を目の当たりにして、こいつはすごいぜ、と憧憬じみた思いを感じさせられてしまうのである。おかげで、できる限り『適切で的確で魅力的な比喩』を考え出してみたいものだ、とか考えてしまうことも少なくない。要するに最近の私は、比喩というものに『称賛じみた評価』を与えている、わけだ。が、時おり不意に、まったく逆の感情を覚えてしまうこともある。不意に『否定的な評価』を与えてしまうのだ。比喩は駄目だ、とか、比喩は危険だ、とか思ってしまうのだ。比喩って諸刃の剣だよな、なんて思ってしまうのである。比喩が持つ『突破力の強さ』や『支配力の強さ』が、文章内にある錯覚や過信や誤謬や飛躍を、ともすれば『見えなくさせてしまう』らしい、と感じさせられることがあるからだ。と同時に、比喩の持つ『突破力の強さ』や『支配力の強さ』に知らぬ間に振り回されてしまって、錯覚や誤謬や過信や飛躍がある、ということを『錯覚してしまう』こともあるようだ、と判断させられることもあるからだ。おのれの行動を見ていて実際に自覚させられることも多い。比喩が持つ『強烈な突破力』に押し流されて問題の全体像を歪ませてしまっているぞ、ということに気づいてしまうのだ。比喩が持つ『鮮烈な支配力』に惑わされて問題とは全然関係ないところに不満や誤謬を見てしまっているぞ、なんてことに気づかされてしまうのだ。所詮は比喩、ということを忘れてはならないなあ、と改めて思う。比喩の味わいをきちんと楽しみながらも、比喩の味わいに魅了されてしまわない頑健な人格を飼っておかねばなあ、と思うのだった。おのれが未熟なだけか、とも思う。