世界は称賛に値する

日記を書きます

言語表現法講義(加藤典洋)

言語表現法講義 (岩波テキストブックス)

言語表現法講義 (岩波テキストブックス)

 学、論、法、と来て、さらにいっそう頭より手の方の比重が大きくなると、何になるか、というと、これが術、なんです。術、というのは、アートです。芸術もアート、でも芸術は昔はファイン・アートとファインがついて、美術でした。アートは、技術。フランス語でアルチザンと言えば、職人さん。これは、手の比重の方が頭より大きい。そのことで少し頭を楽にしてあげる領域です。
 僕が考えるのに、言語表現法というのは、頭と手、それがフィフティ・フィフティの領域です。文章を書く、そのことを手がかりに考える。また、考える、そのことを手がかりに文章を書く。いずれにしても、言葉を書くということを、頭の領域で考える学、論の授業ではないが、これを純粋に手の領域にもしない。これが、手ですらなくて、小手先になると、ハウ・ツーになりますが、とにかく、ハウ・ツーにもしない。書くということを一つの経験と考えたい。
 頭と手なんだ、ということです。

 絶賛できる。おそらく熱狂的な賛辞を捧げることができるだろう、と思った。かなりシンプルに、良い本だ、と思う。かつての私に読ませてやりたいものだ、と考えていた。かつての私は『小説家になりたい』と思っていたからだ。小説家になりたいと思っていた頃の私に必要な言葉だったなあ、と感じてしまったわけである。連想する。かつて小説家になりたいと思っていた頃の自分に読ませたい書物、という言葉で連想する。思い浮かんだのは、保坂和志氏の『書きあぐねている人のための小説入門』と、高橋源一郎氏の『一億三千万人のための小説教室』のことだった。両者とも、小説とはいかに書くか、を描いた書物だった。そして、小説とはいかに書くか、という問いを通じて、小説とはいかなるものか、を語った書物でもあった。同じ感触があるような気がする、と思った。両者と『言語表現法講義』には非常によく似た感触がある、なんて感じられた、わけだ。この感触はきっと『小説が大好きだ』というような気持ちから生まれるものなのではないか、と推測している。三冊とも、小説がとにかくもう大好きで、だからこそ、真剣に向き合っているのさ、ということが、わかりやすく体感できる書物だったからだ。小説が持つ魅力に魅了されてしまっている人が、こいつにはまだまだこんな可能性が山ほど眠っているんだ、だからおまえも頑張ってそこから新しい地平を切り拓いてみないか――で、いつか俺に、今まで見たこともないような新しい世界の輝きを見せてくれよ、というような気持ちを描くと、こんな風に蠱惑的な言葉が語れるようになるんだろうな、と思ったのだった。