世界は称賛に値する

日記を書きます

イケナイは倫理

http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20050818#1124370017

michiaki 『わたし個人が、他者をまったく勘定に入れず、ただ自分のためだけに「これはしてはいけないな」と考え、実行しなかったことも、倫理学では「それは倫理の領域の問題だ」ということになるのですか?(食べすぎだ、とか、これ買うと生活費がきつい、とか)』
jouno 『そうです。他者を考慮に入れるかどうかはまったく関係ありません。倫理という言葉は、ここで、決まり・ルールの意味での「道徳」とは違うんです。多分、そこにすれ違いがあると思うんですが、共同体のルール・決まりとしての社会的なものである道徳命令というのがどういうものだろうと、それはそれとして、選択はそのうえで必要なわけです。わたしはこれをしてはいけないと育った環境の道徳がすりこまれているから強く感じる、というところまでは「道徳」に関する「事実」です。しかし、それはやはり、「してはいけない理由」の説明にはなりません。「してはいけない理由」と「してはいけないと感じる理由」は違うのです。単に、この二つは違うものだから、区別すべきで、前者のことを倫理の領域の問題と呼ぶ、ということです。

michiaki 『将棋の「二歩はいけない」も倫理の領域の問題ですか?』
jouno 『違います。ルールです。「二歩はいけない」を守るかどうかが倫理の領域です』

jouno『つまり、いいですか、「なぜ人をころしてはいけないのか」、という問いに対する答えと、「なぜ人をころしてはいけないというルールや道徳が存在するのか」や「なぜ、ひとをころしてはいけないとあなたは感じるのか」という質問への答えは違います。一方は正当化の根拠を問うているのに対し、他方の二つは事実の原因を問うているからです。この二つの質問、それに対する二つの答えの相違を事実の領域と倫理の領域といっているのであって、名称自体が問題なのではなく、この二つを混同すべきではない、ということをいっているわけです』

 道徳と倫理という言葉がどう違うのかがよくわからなかった。ずっと前からだ。さっぱりわからないよどうにかしてよ、というわけではなかったけれど、その違いを明確に語れるような『きっちりとした認識』はなかったわけだ。ここでなされた倫理に関する議論を読んだことで、ちょっとその認識に変化をもたらすことができたかな、と思う。そこで交わされた質問と回答が非常にわかりやすくそれらを語っていてくれたからである。少なくとも私にとっては質問と回答のすべてが素晴らしいものだった、と言っていい。私が当事者であったなら、おそらく『二歩はいけないは倫理の領域の問題なのか』なんて質問は出せなかっただろうし、無論回答することなんて不可能だっただろう、と思う。