世界は称賛に値する

日記を書きます

近所の本屋で買った

「1」εに誓って

εに誓って SWEARING ON SOLEMN ε (講談社文庫)

εに誓って SWEARING ON SOLEMN ε (講談社文庫)

 加部谷恵美は雪の中を走っていた。爪先が既に死んでいるのではないかと思えるほど感覚がない。アルペン競技をしているか、そのためのトレーニングをしている、という想像をしても効果はほとんどなかった。ただ、躰は暖かい。同じ自分の躰なのに、どうして不均質なのだろう。こんなふうに自分はいつも苦境に立たされる傾向にあるのは、この不完全さ、不均質さのためか。けれども、そこは屈強な精神力で乗り越えるのだ、と駄洒落を思いついて、思わず白い息をもらした。情けない。

▼▼文庫化。Gシリーズ。四冊目。シリーズシリーズしたものを書こう、というような狙いが、単純だけど、あるのかな、ってたまに思う。以前のシリーズよりは「続き」がある印象が強いからだ。通すことで見えてくる楽しみが比較的濃いめだよなあと感じる。

死を見つめるだけの者と死から目を逸らす者と直視する者とかできる者とか

▼▼電車の中では『εに誓って』を読んでいて、比較的溜め息が多かったんじゃないかと思う。ツマラナイ的嘆息では全然なくて、精神を真摯や真剣で彩ると溜め息がもれてしまうような心境っていうのがあるのだ。あった。▼▼死の話は嫌いじゃないなって思う。死とか終わりを見つめることはおおむねよいことだろう、と判断できてしまっているところもあって、決して嫌いではないよなー、って感じる。▼▼なんていう心理は、つまり、短期的視野よりも長期的視野に対して良さ善さ正しさを見てしまっているってことで──瞬間的で短絡的な快楽だけ求めてしまっているとあとで大変なことになってしまうぜ、って状況を強く問題視している、ということの証でもあって、換言してみるなら、些細な「短絡的判断」が積み重なるとあとで取り返しがつかない「悪さ」に繋がってしまいがちなので愚行だ、っていう経験則がある、なんてことも言えてしまったりすると思う。実際はどうなんだろう、と問うことには意味があるかなー? ▼▼けれど、終焉や最期を普段から認識して動いているなら問題なしで──逆に言えば、短絡的判断や楽観的幻想という「結果的に死から目をそらしている」ようなものは全部駄目、って批難してしまうようなことは好きじゃないな、とも思うのだった。素敵な考えだけど別にオマエは偉くない、みたいな。美しさと偉そうに誰かを否定する権利は全然別のことだ、っていうか。

称賛Aの裏にアンチAがないような構造で褒め称えたい

▼▼素敵な世界観を持つ人を、素直に称えることはしたいけど、誰かを称えられることを理由に、誰かを貶めることはしたくない、ってよく思う。世界観に「死」や「終わり」が組み込まれていることを素敵だとは思えるけれど、だからって、だから正しいとか正しくないとかは、可能な限り言いたくない。でも、言ってしまっていることはある。▼▼対義語みたいな関係をいかにぶっ壊すか、みたいなことを最近少し考えてしまう、のは、だからかなー、って思った。判定Aの裏に判定Bがないような精神は成しえない?