世界は称賛に値する

日記を書きます

愉悦と理解のバランス

▼愉しんでないな。おもしろがってないぜ。と精神を観察していて思った。整理時期なのかな、と思ったりもした。世界を愉悦に染めようとする時期、と、世界を理解に染めようとする時期、があるからだ。違う時期がある、と経験から判断しているからだ。最近は理解を優先しているなあ、と判断したのだった。記述していると余計強く感じてしまう。整理しようと踏ん張っている、のが、わかるのだ。言葉の色合いが変わる。もっとおもしろがろう、と思った。起床は午前6時。多少寝すぎた。晴れ、とは言いがたい。雲海の底だけが見える。陽射しにも曖昧さを感じてしまった。現状目標は『記憶の中にいる「しっかりしていた彼ら」に負けないような隙の無さを獲得する』で、週間目標は『行動リストに実施時間も明記する』だ。読書は『続・企業参謀』に戻ってみた。揺れ動きすぎだ。

でなくてもかまわない

▼でなくてもかまわない、という判断は、じゃなくても死にゃしないだろ、の意だ。
▼正確に言うなら、執筆していて「でなくてもかまわない」と記述しようとする時、背後では常に「じゃなくても死にゃしないだろ」を思い浮かべてしまっている、と言えるだろう。死にはしないさ、が持つ感触を、でなくてもかまわない、に託してしまっている。
▼だから、問題ない、とはたぶん訳せない。
▼最悪ではない、が最適な翻訳になるんだろうな、と思う。

粗雑な整理は好きじゃないようだ。粗雑に書くと消えてしまうような地味部分が好きだからだろう

▼粗雑な整理は嫌いらしいなあ、って改めて自覚した。整理が汚いと無意識に「許容できなさ」を残してしまうらしい。細密、緻密、詳密、厳密、あたりがないと納得できないようだ、なんて考えてみた。が、正確に言うなら、思考経路の「細やかなところ」に「おもしろさ」を見てしまっているだけなんじゃないかな、とも思った。文章を書いたあと、どうしても、なんかつまらないんだよなあ、とか感じてしまうことがあって、時間を置いてから見直してみると、ぽこぽこ理路に手抜きが見つかってしまうことは、多い。で、言葉を書き足して、詳細を書き足して、理路を緻密に仕立ててみせると、妙にあっさり好きになれたりする。すっきりおもしろがれたりする。題材や経路が同じであっても、細やかに書かれている、というだけで、なんか簡単に納得できてしまうことがあるのだ。思考を短縮化して粗くしてしまうと違和感が残ってしまってうまくおもしろがれない、というよりは、思考を短縮化するだけで消えてしまうような些細で地味なところに「おもしろさ」を見てしまっているんだろうな、と思う。整理する時は心掛けておかねば、と考えていた。