世界は称賛に値する

日記を書きます

カメラを止めるな!を観てきました

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▼▼極めて好評な『カメラを止めるな!』という映画を観に行ってきた。珍しくよい位置のシートを取った。取ることができた。普段はあまり位置を気にしないほうだ。一番前であろうと別によい、と思っているフシさえある。けど、抜群によいところから観ると、確かに可能な限りここから観たいとは思いそう、とは思わされてしまったな。
▼▼ここのところ続いていた忙しさも今週を境にできるんじゃないか、というような印象が出てきてくれている。ので、気晴らしと切り離しを兼ねて出かけてきた。映画は基本的に観測範囲内で話題になっている状況だと観に行きたがることになるようだ。わりと頻繁に釣られている。今回も釣られた。ストーリーの途中におおきな転回があるかのように語られていて、内容については触れないほうがよい、という雰囲気が事前にあった。おおきな転回があるかどうかだけでなく、おおきな転回がいかに面白さに寄与しているか、いかに面白さに繋げる知恵と工夫が見られるか、っていうところが、重要だ、と思いたがるところはあるので、楽しみどころはここだろう、と考えながら観ていた。細やかな手配が多くてけっこうびっくりした。でもって笑った。監督と娘の役柄が好きだった。最後にはなぜか登場人物みんなを好きになってしまう物語と演出と設定であったかと思う。という雰囲気は非常に好きだ。登場人物ごとの特徴すべてを語り尽くす暇はない、ので、適度な情報調整が必要になる。という中で、なんとなく好きになるだけの情報は見せておく、調整してみせる、といった手際が好きだ。

チェックポイントの数ばっかり最近は頭に残している

▼▼出かける時はこの三つの物品を持っているかどうか確認する、するとよい、というような、三つとか四つとかの数字が、じぶんの場合は、有用だ。活用している。チェックポイントとなる「数」を、事前に準備しておき、記憶しておくことで、チェックする、というのに、慣れている。あるいは馴染んでいる。あるいは向いている。最低限、これだけはやっておこう、という数字を、決めておく。で、記憶されている数字から逆算して、なにやるんだっけ、って思い出す。▼▼まあでも人によるのか、こういう記憶法が向いている人もいるし向いてない人もいるか、ということを、最近は考えることも多いのだった。最近は人に教えることが増えたせいで、教えながら、考えていた。

基本的に頭を使うほうの選択肢を優先する(信奉する)

▼▼動向をうまくシミュレートできていなくて、こういう状況になることを想定できていなかった、というおかげで逆に、気にせず推進することができてしまった、という経験が増えてきて、あんまり細かく丁寧に未来を想像しようとしないほうがよいのでは、っていう気持ちが出てくることも、多少、増えてきた。ケースバイケースだ、場合による、ということを見つめ直して、いやいや、と考えるようにはしていたりもする。極限まで考えるほうが好き、というか、極限まで考えるほうが素敵である、って決めつけたがっているところはある。
▼▼頭を使うほうが使わないほうよりよいじゃん、っていう信仰が根っこのほうにあるため、実はこういう時は頭を使わないほうがむしろよいのでは? って思えてきそうな経験則が、出来てきたりしたとしても、アンチというかカウンターというか、苦言、を、ぶつけておかねばなー、って思っているところは、あるかと思った。脊髄反射や無意識が「受け容れ難いぞ」って言ってしまっているのは判る。

絶対に一文で区切る

▼▼説明をする時には、文章ごとにブツ切りにしたほうが、判りやすい、というか、言いやすい。文章と文章を繋げるようにして口にしているあいだに、文章の繋げかた、形、に混乱が起きてきて、主語述語がねじれ始めたり接続詞がおかしくなり始めたりする。だからまあ、多少、変テコであっても、言い切るのを続けたほうが、マシ。といった助言や指針を、けっこうひさしぶりに意識したし話した、という日であった。××なので、××ですが、っていうあたりが強敵だなー、と認識している。理由と帰結といった形式に当て嵌めることで文章が勝手に繋がっていってしまうのと、本文と注釈という形式に当て嵌めることで文章が自動的に繋がっていってしまうのが、続いていくことによって、結果、おかしな形、に積み上がっていってしまう印象だ。繋がりすぎて形を制御できなくなる。
▼▼以前、絶対に一文で区切る、と決めて日記を書いていたことがあった。比較的好きな日記が書けていたかと思う。最近は、リズムのようなものを意識していて、区切る、ということの優先順位は、多少、下げている。接続詞で繋げることで文章が発する音韻リズムと意味リズムを整えるような遊びはしている。絶対に一文で区切る、も、とはいえ時々はしたくなる。好きだ。

長寿者記憶機構

▼▼意識構造の違いによって時間の認識や印象に差を生じさせることが可能なのかな、というのは思ったりする。エルフとかヴァンパイアとかが長寿とされ、人間の一生なんて泡沫だ、塵芥だ、とか言っていたりすることがあったりするかと思うのだけど、そういうもんなのかなー、とは考える。▼▼まあ、普通に人間と同じような生理や機構によって、人間と同じような生活を送っている種族は、結局、人間と同じような意識構造になるし、同じような時間感覚になるんじゃないかな、って気はする。ほんとうに長寿で、ほんとうに人類とは異なる時間感覚を持つ生き物、を考えるなら、生活、文化、文明、といったものは、かなり異なる形状になるんじゃないだろうか。知性や精神も異なる形状を考えたほうがよいのだろう。
▼▼というふうに考えると、エルフとかヴァンパイアが見せがちな長寿感はなんとなく違うんじゃない?って思えてきたりもする、かな。とはいえ、実際に、気が遠くなるほど長く生きてきてしまった者、が──気が遠くなるほど長いぞ、って感じてしまうような記憶の機構や構造の持ち主が、飽きと倦みと忘却によって、いつしか生活を放り投げ、現実や実際を放り投げ、遠巻きに見始めたり斜に構えたりし始めて、時間感覚を加速させてしまう──省略するようになってしまう、っていうふうに変化していくであろうことも、まあまあ、想像できたりはするのだった。▼▼記憶の形状によって変わるんかな、ってふうに思えてきたりもした。忘れるか忘れないかでおおきく変わりそう? 昔のことを「昔」と思う実感によっても変わってきそう。