世界は称賛に値する

日記を書きます

ミーハーも人類や人生に益するとよい

▼▼ミーハー精神。ミーハー行動。丁寧で真面目な判断や決意や覚悟などがなく、まわりの雰囲気や言葉に踊らされるようにして、流され、主体性もなく、知ったかぶりのような粗雑で浅薄で不確かな知識と認識で、活動している、っていうような状況に関して、駄目じゃん? とおおまかに思ってしまっていることが多かったのだけど──思考を開始した瞬間に「ミーハーもアリな場面がこことここにあるじゃん、と思い至れていなかった」ことが多かったのだけど、相性によるか……、場合によるか……、ミーハーが適する瞬間もあるんじゃないか、と、改めて思い直した。疑問文を立て直した。おおむね駄目そう、という観念が強すぎるのよくないぞ、って思った。
▼▼ミーハーであることが最適である、と思える場面って、やはり、あんまりないように思えてしまっているのだけど、まるでない、と思ってしまうのは、早とちりだろう──早計だろう、って再認識したのであった。▼▼ミーハーであることが人類や人生に適さないことはまあまあ多そうだ、とか思っているところはあって、なぜそう思っているんだろうか、とも思った。深く納得し、きめ細かく理解し、決意と覚悟のもとで行動する、ということが、人生や人類に、益しそうだ、って予感と信仰が、かなりあるわけだけど、少々ありすぎでは?


▼▼ミーハーって言葉が死語化してないのってけっこう凄いんじゃない?というのも、ほぼ無関係ながら思った。
(明確に死語化しているのに気づいてないだけかもだけど……)(ミーハーという言葉の見た目的な意味不明さが生き残りをうながしているんだろうか……)(ミーハーという言葉が示している現象が、話題にしやすいものであるがゆえに単語が用いられやすい、とか、問題視されやすいがゆえに単語が用いられやすい、とかもありそう……)

アズールで遊んだ(白色ボードゲーム会)

白色ボードゲーム会

アズール(初プレイ)

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▼▼幸運にも買うことができた!という雰囲気のある『アズール』で今日は遊んだ。ドイツで開催された新作発表会の出口調査で三位を獲得した話題作である。アブストラクトゲームと言える。完全情報公開型であり、運要素少なめで、テーマやフレーバーの抽象性が濃い、時に、アブストラクト、という分類で呼ばれることが多くなる。三人で遊んだ。
▼▼百個の見目麗しいタイルをふくろの中に詰め込んでから、いくつかの「ファクトリーディスプレイ」と呼ばれるエリアに、四つずつ、ランダムに、置いてゆく(ファクトリーディスプレイの数はプレイ人数で変わる)。おのおのが手番で行なうのは「ファクトリーディスプレイの上のタイルを『一種類すべて』取って、残りを、真ん中の「何もないエリア」に置く」というアクションだ。タイルが真ん中のエリアに置かれたあとは、真ん中から「一種類すべて」取ることもできるようになる。▼▼というような形式でタイルの奪い合いを行なって、取ったタイルをじぶんの個人ボード上に配置し、上限いっぱいまで配置されたタイルを(上限いっぱいまで配置できた時だけ)、勝利点が獲得できる側に、移動させる、というのが、おおまかなゲームの流れになる。▼▼勝利点が獲得できる側に移動させた時に、置いたタイルに隣接するタイルがあれば、勝利点が貰えるし、最終的なタイルの配置によってもボーナス勝利点が貰えたりする。
▼▼置く場所が限られていて、沢山取ればよいということでもないし、置けば置くほど置けなくなっていくというルールもあって、ジレンマが生まれる。一回置いたタイルの列には同じ種類のタイルは置けなくなる、というルールも、うまく利いている。流石は人気投票三位、という気持ちで眺めながら遊んだ。非常に好きな雰囲気である。
──最大【10】点中、幅としては【5~9】の雰囲気があって、現状の重心は【8】だ。

髑髏と薔薇、タイムボム、タギロン、ペンギンパーティ、ラブレター、ブルームサービス・カードゲーム、スコットランドヤード東京、ミミックアーツ、で遊んだ(白色ボードゲーム会)

白色ボードゲーム会

▼▼初めてボードゲームで遊ぶという人物も誘って、遊んだ。なかなかに稀有かつ変梃な顔触れで集まったんじゃないかと思う。再現できるか不明である。好評を博してくれて今後も続いてくれると嬉しい気のする集団ではある。▼▼ボードゲームというものの紹介も兼ねているところがあって、鉄板寄りのゲームを出したくなることが多かった。実際、まあ多少の惰性などもありつつ、好きなゲームばかりを並べる羽目になった。▼▼『タイムボム』→『タギロン』→『ペンギンパーティ』→『ラブレター』→『ブルームサービス・カードゲーム』→『スコットランドヤード東京』→『ミミックアーツ』という順番で遊んだ。プレイ済のものも多いので取りまとめて評価や感想を書いておく。

▼▼最初に遊んだ『髑髏の薔薇』のことを想起しながら、やはり『髑髏と薔薇』の面白さは安定していて、凄かった、と述べておきたくなったのだけど、その直後に遊んだ『タイムボム』に対しても『ペンギンパーティ』に対しても、同じ言葉をかけておきたいところがあるな、と、改めて思ったりもした。臆病と勇敢を秤に掛ける勝負、正体を隠して嘘をつく勝負、邪魔しながら手札を調整する勝負、というような様々な競争を、前述した三つのゲームは、非常に丁寧にまとめてくれている。面白さの安定感が凄い。▼▼といったゲームと比較すると、論理パズル的な『タギロン』は、まあまあ好き嫌いが分かれやすいところがあるかな、って思えるところがある。思っていたりはするのだけど、好き嫌いの分岐の幅がおおきくなりそうところを、非常にうまく、軟らかくしてくれているじゃん、とも思っている。同種のゲームの中では正直とっつきやすさが尋常ではない。▼▼『ラブレター』の遊びやすさもあいかわらず流石であった。最も楽しそうにして貰えていたんじゃないかな、と現状では評価できている。▼▼魔女になって魔法の瓶を集める『ブルームサービス・カードゲーム』については、説明時にミスをしてしまい、ほんとうに無念、という気持ちが強めだ。非常に申し訳ないことをした。好きなゲームであるだけに、後悔がおおきかったりもする。改めて遊べる日が来ることを祈っている。▼▼犯人側と刑事側に分かれて、逃走と追跡を行なう『スコットランドヤード東京』は、華麗なる勝負を行なうのが難しいな、と、最近よく思わされているところがある。中盤、警察側であっさり負けることが続いているからだろう。非常に遠くへの逃走を許してしまって、あ、これ、無理、ってなりがちな昨今だったりするのであった。投了気味にならないようなプレイングを習得したいぞ、と思っている。




髑髏と薔薇(複数回プレイ済)

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タイムボム(複数回プレイ済)

タイムボム

タイムボム






タギロン(複数回プレイ済)

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ペンギンパーティ(複数回プレイ済)

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ラブレター(複数回プレイ済)

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ブルームサービス・カードゲーム(プレイ2回目)

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スコットランドヤード東京(複数回プレイ済)

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ミミックアーツ(初プレイ)

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▼▼『ミミックアーツ』は初めて遊んだ。人様の持参品だ。少し前に開催されていた「ゲームマーケット2017秋」での戦利品である。面白いという話を聞く場面もあって、遊んでみたかった。おのおので「二階建ての美術館」を作るゲームである。場札から「絵画」カードを取って、じぶんの美術館に、並べる──展示する。展示場所がより奥であるほうが真実度が高く、二階より一階に飾ってあるほうが真実度が高い。ただし、勝利点としては二階のほうが高くなる(二倍になる)。内容としては「人の美術館に飾ってある名作絵画を贋作に仕立て上げる」ゲームだ。同じ絵画がぼくの美術館とあなたの美術館に飾ってある場合、二階よりは一階に、手前よりは奥に、置いてあるほうが、真実度が高く、つまり、本物、と認定される。でもって、偽物になったほうは裏返されてしまう。取ったカードは一番手前か一番奥にしか置けず、まったく同じ位置に置かれていた場合は、どちらもが、偽物として消し去られてしまう。という「配置」のジレンマで遊ぶゲームだ。全体の配置を把握するのが大変ではあるけど、カードの配りかた配られかた、配置ルールの妙、が明らかに素敵だった。よいゲームだ。
──最大【10】点中、幅としては【6~8】点の印象で、現状の重心は【7】あたり。

脳内張り紙薄れるので、普通に張り紙するのよい

▼▼箴言や格言、警句、標語。といった風情で語られていないと可視化や前面化させておけない認識があるなあ、と改めて思った。誰かと雑談する場面なんかで、否定的な回答や逆張り的な返答ばかり口にしていたとしたら、いずれ、話すのをウザがられるようになるぜ──堆積により雑談を振られなくなるぜ──嫌がられる嫌われるぜ、っていうのは、当然だろうというか、妥当じゃんというか、まあまあ、想像の範囲内ではないかなあ、って思えていたりはしている。誰かに言われたら、知ってる、って思いそうだし、誰かに言うにあたっても、知っているだろう、と想像してしまうことが多い。のだけど、改めて、言葉にしてみて──理解&納得の光を当ててみて、普段から「このあたりの、あぶなさ、駄目さ」を頭の中に思い描いておくことができているだろうか──留意および注意ができているだろうか──行動指針に出来ているだろうか、って思い直してみたら、うーん、と疑問に思うところも、あったりはした、のであった。忘れている瞬間も気をつけていない瞬間も見逃している瞬間も、やはりあった。
▼▼既知と当然の匂いが濃くて、十全に判っているかのような態度で普段から見かけてしまっている注意事項というのはあって、でも実のところぜんぜん常備できていない、ということも、かなりある。
▼▼というような時に、箴言、格言、警句、標語、といった形状が、けっこう役に立っているようだ、ということに改めて気づけたのであった。
▼▼注意書きの張り紙の有効性を見直していかねばというか、脳内張り紙のぼやぼや具合に気をつけようというか、加齢による変質、世界の慣れによるサボり、等によって、判り切った注意事項が薄らぎ揺らいでゆくこと、とかのことを改めて思ったのであった。

どこかのタイミングで、それを「体験」したら、その後、「体験」の記憶は、いつもスタート地点に近いほうに置かれる、のでよいのか

▼▼能書きより体験のほうが早い、人の話より実体験のほうがよい、意味記憶よりエピソード記憶のほうが強い、といった順位の付きかたは、まあ、判る。確かに実際にやったことにはおおきな衝撃がともない、前面に来る。だから、物事について考える場面での「参照」時にも、言葉で憶えたこと学んだことよりも、体験での記憶を「前に」「先に」見てしまうところが、ある。あったりすると思う。最初のほうで参照してしまい、結局は基準にしてしまう、という状況がある。
▼▼のだけど、この「基準にしかた」「順番」「構造」が、いつだって妥当ってわけでもないんだぜ、ということを、今回改めて思った、のであった。実体験のことをまず見てから考え始めることが、常に有効打である、とは断言できないんじゃないか、と思えた。些細な差だが差はある。
▼▼道理を理解する時に、実体験を思い返して、ああ、あれのことですね、って思うことは多く、理解の王道だとも思っているのだけど、この時に為される「視野の狭まり」「拡がりの可能性の潰し」「確定具合」のことは、踏まえておいてよいだろう、と思った。