世界は称賛に値する

日記を書きます

無意識足切り底上げ

▼▼だらだらっと、深く考えずに、軽快かつ軽薄な自然体で、というようなスタンスで、物事に、行為に、望んだ時に、それでもなんとなく働いてしまうハードル、無意識的な(いや結局意識的かなあ)足切りライン、を、もう少し上げてみせるのは、よいことでは、と、まあまあ考えてはいる。

自意識過剰を気にして過剰じゃないようにしている人に過剰でもよいから出して~って思いがちな気がしていたけど、いずれにせよ過剰を気にしている

▼▼自意識過剰的なことを気にしてしまい、やらんほうがよい、って判断し、我慢しているというか制限しているというか自重している、ような人に対して、いやもっと出してくださいよー、自意識過剰とか気にしなくていいですよー、あなたのそれなら見たいですよー、とか思っていることはあって、実際に言うこともあるけれど、あんまりがしがしそういうところばっかりに偏重している人、を見たら、いややりすぎでは? と思うので、適切な量の自意識の表明は見たい、と思っているだけであり、自意識ゼロはつまらない、と思っているだけでもあって、結局、自意識過剰は駄目だ、と思っているのだな、過剰なのを見たら過剰~って思うのだな、ということを、再認識した。自意識って何? 自意識の過剰ってどういうこと? というのは、まあ、時々、問題文として頭に与えている。

ブルーライト線引き

▼▼マイナスイオンにも水素水にも最初っから「はあ?」って思えたかと思う。既存の知識と照らし合わせて、矛盾するじゃん……、と思った。けれど、ブルーライトカットに関しては、うまいこと齟齬を見つけることができていなくて(中高生レベルの理科の知識でおかしなところを言い当てることができなくて)、いや結局どうなんよ? と、宙ぶらりんにしているところがある。最近は見かける機会もどんどん増えていて、あれ? 医学的根拠がないとか聞いていた気がするだけど、もしかして、よい実験結果とか出てきてるのかな? 認定されつつある? というような気分にすらなっていた。まわりの雰囲気に釣られていた。
▼▼いくらか調べてみたところ、あいかわらず医学的根拠は曖昧のようだ。まあ、検索の過程で、意外と効いたよー! 医学的にはまだはっきりしていないようだけど、無意味や無効と断じられたわけじゃないんだし、なかなかいいもんなんじゃない? おすすめ! というようなブログ文章が出てくるところもあったりして、でも、このあたりって、昨今の風潮を通して見ると、ブロガー的アクセス数のためのふわっとした体験談の可能性も高いよね、って思えてしまうので、疑わしい目で見て終わるだけになっている。いやまあ、仮説を試してみること自体は、よいことでは、って気もするけど。


▼▼改めて考えると、科学じゃないもの──疑似科学、と、科学、の線引きをするのって非常に難しいのだな、ということが、判ってきた。けっこう判っていなかったのだ。
▼▼でもって、このあたりの線引きをはっきりさせてやろう──線引き可能になる説明を構築してみせよう、としてきたのが、科学哲学、という学問分野なのだ、ということも理解できた。▼▼科学哲学、って言葉は好きで、まあ「科学」も「哲学」も好きなので、兼ね合いというか重ね合わせというか、合体ロボ的に、好きだ、とこれまでは思っていたわけだけど、なんというか、落ち着いた雰囲気の中で判った気がするのだった。

眠らない躰を不老不死の前哨戦に

▼▼眠らない躰が欲しいよう、的な願いの話を聞いて、いわゆる「不老不死の願い」の前哨戦として実現して欲しいものと言えるかもなー、って思ったのだけど、改めて思考し直していたら、不老不死よりも眠らない躰のほうが、むしろ、なんとなく、実現が難しそうに思える、って気分になってきた。不老不死は「細胞を発生させるプロセスの変更」で実現させられそうだけど、眠らない躰は「各部門の改正と調整が必要そう」だと思えた、からだ。と思考してから、規模感で言えば細胞が持つ方向性の全面改正のほうが余程大規模なのでは……、というのも思って、結局は留保する算段になった。
▼▼思考のぐるぐるというか道筋というか、散歩の記録、は、したいと思いがちである。

思考の異業種交流

▼▼一つの便利な物事がすぐさま全世界に普及するわけではなく(そもそも「すぐに」どころか障壁や停滞によってまったく拡がっていかないことだってあって)、結局、非常に効率的で効果的な物事が、狭い範囲の中──ある業界内や組織内、でのみ、採用され、運用されているだけで、ほかの場所では、時代遅れとも言える物体や事例が、まだまだ活躍していたりすることがある。▼▼なので、ある業態の中では当然のことが、ほかの業態に侵入することがあれば、極めて斬新で、挙動をおおきく変えてくれたりする。まったく別の価値を産んでくれることさえあるだろうと思える。
▼▼インディーズのボードゲームを製作するプロセスの話で、ある部品が高価で、使いづらく、ゆえに、別の形態を検討していたりもしたのだけど、ぜんぜん別の業態の中でほぼ同じものが異なる用途に(沢山)使われていることを偶然知って、量産されているがゆえに安かったので、結果として、なんとか完成させることができましたー、この価格が実現できましたー、というような話を聞くこともあって、このあたりも同じ話だろう、なんて思ったりもしている。▼▼あとは、ぜんぜん別の業態(音楽業界や広告業界)からやってきた人物の発案したテレビゲームが、大変新しい切り口を持ったものであり、非常に面白かった、という事例なんかも経験があって、このあたりにも類似を見ている。


▼▼いずれにしても、前述したような情景が、好きと言えば好きで(素敵な案件が発見され次第、世界中に普及すればよいのに、とも思わなくはない)、思考面についても同じようなことを思っているところがある、のだった。効率的で効果的な思考型が、すべての環境に普及させられているとは限らず、狭い範囲内に停滞させてしまっていることだってありえて、だから、ある場面の時にはごくごく自然に使えている思考型を、ほかの場面に敷衍できたら、便利だったりすることもあるのでは? 効果的、効率的なのでは? 素敵なのでは? って考えているのが、好きだ。

ふらふらと好奇心旺盛

▼▼美意識や価値観がいつだってふらふらと揺れていて、軸がなく、人様の言葉に左右され、判断が曖昧、雑、ころころ変わる、っていう状況については、なんか駄目そう、って感覚を持てるのだけど、人様の言葉を、素直に受け、あっさりとなんにでも興味を持って、豊かな精神でなんにだって首を突っ込む、忌憚なく足を踏み入れることができる、というのが好きなので、ここに関して、丁寧に線引きができているか(線引きできる言葉を探して、普段から準備しておくか──正当化できる理屈を構築しておくか)、あるいは線引きして区別してみせるわけじゃあなくても、何かしらうまいことが言えるようにしておくか、っていうのをしておくとよさそうだな、って思った(ってふうに言語化していってみたら、人様の言葉に左右されること、が難点なんじゃなくて、人様の言葉にふらふらしてしまうような場面における「曖昧さや粗雑さ」が難点なのであって、ここについて対策できてればいいんじゃない? って気もしてきた)