世界は称賛に値する

日記を書きます

きょうあくなまもの、と、ラミー17、で遊んだ(白色ボードゲーム会)

▼▼二人対戦型ボードゲームで数回遊んで、敗北した。敗北という言葉を使おうとするたびに「なぜ【北】なんだろ】という思索ダッシュを始めてしまうところがあるなー。以前に調べたことがあるのでいちおう理由は知っている。知っているけど考えてしまう。というような「慣れなさ」「馴染んでなさ」には、時折遭遇するし、辟易する。▼▼実感、納得、腑に落ちる、といった言葉との関連を思ったりもするかな。余計なことを考えないで済む。判っていることのはずなのに再検討をし始めてしまうような癖が出なくて済む。余所見が減る。選択肢が減る。▼▼まあ無論、余所見や選択肢が減る、ということが、最適や最善、いつだって素敵! ということでもないとは思っているのだけど、人生には時間制限があり、たいていのことには時間制限があるわけで、数秒の思考時間の短縮、ローディング高速化、を、喜んでしまったりするところも、やはりある。あるなあ。
▼▼『きょうあくなまもの』と『ラミー17』で遊んだ。二人。サクサク遊んだ。楽しく遊んだよー、ということは記録しておこうかな。『きょうあくなまもの』が最近はなかなか好きである。『八人の魔術師』『聖杯サクセション』『きょうあくなまもの』の「シンプル二人対戦三本立て」で誰かと対戦する欲とかがある。企画立てる。▼▼『ラミー17』は初めて遊んだ。「ラミー系」という名称で区分されたりするゲームだ。


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カードゲーム ラミー17

カードゲーム ラミー17

サイエンスフィクション的フォーカス

▼▼新技術が新世代の意識を変えていく風情を、時々、見かける。というのと同様に、原始時代、縄文時代、奈良時代、戦国時代、江戸時代、古代ローマ、古代ギリシア、ルネサンス、三国時代、西部開拓時代、といったところ、つまり時間と場所、環境によって、意識は、ごろごろと変わってきたのだろう。


▼▼サイエンスフィクションに属すであろう物語を読んでいる時に、現状とは異なる、科学、技術や道具、国家や文化、世界法則、などが、人間の意識を、如何に変えうるか、変えているか、ということの「シミュレート具合」に、ワクワクする、って思っていることがあったりするのだけど、でも、時間と場所、あるいは、立場、などが違うだけで(それこそ、今日の東京で行動Aをしているじぶん、と、昨年の鹿児島や北海道で行動Bをしていた誰か、とで)、すでに、意識はそれなりに違っているのではないか?──そこにも意識の違いを「観」て、ワクワクできてもよいのではないか? なんてふうに思うようなこともけっこうあって、まあ、なんというか、つまり、おそらくたいていの物語は、いくらか特殊な──現状のじぶんといくらか異なる「状況」や「情景」を、描いてくれているわけで、サイエンスフィクションに対して思いがちな「科学的要素が人間の意識の一部を変容してくれるであろうことに対してのわくわく」を、ここにも適用しちゃって、別にいいんじゃないかなー? 思うことも可能なんじゃないか? って思ったりも、する。することがあるのであった。


▼▼まあ、科学および科学的思考に対するワクワク。人間の叡智に対するワクワク、現代の人類の限界を超えていることに対するワクワク。というようなことが、サイエンスフィクションが好き!楽しい!という感覚の中には、混じってきてるんだろう、な。新技術シミュレートという線引きだけを境界線にしておくことはできなそう、というのは判る。


▼▼まあ、現状のじぶんとは異なるところに立っている人が、現状のじぶんとは異なる意識を(当然ながら)持っていて、そして無論、現状のじぶんとは環境に違いがあって、その異なる環境から影響を受けているからこそ、異なる意識を持っているのである、異なる意識が形作られているのである、意識が変容しているのである──、そしてそこに、如何なる変容があるのかな? 如何なる変容の構造や法則があるのかな? 環境と意識の因果関係は如何なるものでしょう? ということに、わざわざフォーカスしてる物語って、そんなに多いかなー? いわゆる「サイエンスフィクション」に属しそうな物語のまわりにこそ、そのあたりを強調する空気、読み取りたくなるような、見出したくなるような、雰囲気、などがあったりする、んじゃない? っていうふうに解釈してみることも、まあまあ、可能だったり、する、かなあ。
▼▼描かれている、解釈は可能、だとしても、そこにフォーカスしてるとしてないじゃ大違いじゃん、と言えたりはしそうだなー、とも思ったのだった。


▼▼大規模かどうか、大袈裟かどうか、っていうのも、いちおう、関係しそうかなあ。北海道の自然が、会社の事件が、学校のイベントが、あるサービスが、ある個人ないし何人かに与えている影響、を描くのと、サイボーグ技術が、宇宙開拓が、異星人が、人類に与えるであろう影響、を描くんじゃ、やっぱり、違う──感覚として違うのでは? というのは、ありそうだ。
▼▼例外事例もぜんぜんありそうだけど……。▼▼初の文化祭の準備で色めき立つ一クラスを、インターハイに向かって熱を上げ始めた新生部活を、異星人との邂逅で色めき立つ人類、のように、描くことも、不可能ではないのでは、とも思うし……。

成功談と失敗談

▼▼成功談も失敗談も、ほんっとうに、ほんとうに、扱いが難しいな──心、思考や精神の中での、置きかた、置き場所、が、難しすぎるぜ、というようなことを、繰り返し繰り返し考えている──幾度となく思ってしまっているけど、このことを、再認識してみせるために──見つめ直してみせるために、こうして言葉で書いてみると(今言葉にして書いてみたら)、繰り返し幾度となく「独り頭の中で呟いて」いたのとは、やはり、雰囲気が、感触が、影響力が、変わるなあ、っていうのも、判る。判った。
▼▼そういう日記の使いかたをしている。日記をそういうふうに見ている。日記ってそういうものだと思っている。──というふうに言うのも、納得いってない、かなー。普段ぼんやり頭の中で感じているのと、日記で言葉にするのでは、じぶんに対する影響力が、影響の範囲が、影響のしかたが、変わる。言葉にしたほうが「じぶんを変えやすい」という感覚は、なんとなく、好きじゃないところもある。そういうこともある、というのはすごく判るのだけど、でも、そういうことが主、と認識してるのが、好きじゃない、ってところかなあ。それが、目的として、主題として、最も大切なものとして、掲げられているのが、嫌、というところがあるのかなー。ほかにもっと大切にして欲しいものがある? いや、違う? じぶんを変える、変えたい、といった時に、そういう「頼りかた」をするのはどうなの? という方向かな? こうしとけばじぶん勝手に変わってくれるでしょ、自動的にうまくいくでしょ、みたいな甘え、油断、思考停止が嫌なのか? うーん、このあたりいろいろ複合していそうではある。
▼▼あと、成功談と失敗談の話は、憧れの人の、憧れの立場や状況にある人の、成功談と失敗談だと、なおさら厄介だ、というか、ここが難しさのキモだ、というふうに、「憧れ」も混ぜておいたほうがよさそう、って最後に、思った。そして、成功談、って言葉、初めて使った。

負の感情

▼▼負の感情、って言葉、あんまり好きじゃないなー、って思うことは多かった。気持ちや感情に正も負もない、というような文言には惹かれるほうだったからだ。好きな世界観や人生観だ、とは言える。▼▼とはいえ、ここで使われている「正」って「正しさ」のことではないのだよなー、とも思えるようにはなった。思うようになったし、今回、改めて強めに思った。正負と正誤は別の軸なのでは? と認識し直した。


▼▼「負の感情」というのは「誤った感情」と等値ではなく、つまり「正の感情/負の感情」という区分で物事を考えることは「正しい感情/誤った感情」という区分で考えることとは異なっていて、けれど、ここを混同してしまっていて──ここに混乱や混線があるせいで、なんかあんまり好きじゃないなあ、という気持ちを出してしまっているところがあるようなので、なんとかせねば、と、今回、改めて思わせられたりしたのであった。
▼▼ある感情に対して「負の感情」という言葉がぶつけられていた時に、この感情が「誤り」だとでも(そんな感情はあってはならない、とでも)言う気なの? と、よくツッコミたくなってしまっていたわけなのだけど、いやいや、このツッコミをこの場面で使うこと自体が間違っているんじゃない? ズレてるんじゃない? ってことに、今回気づけたし、今後も気づけるようにならないと、と反省した、のだった。



▼▼社会、組織、集団、を、破滅や崩壊に導く、というか、維持するのには向いていない感情、というものが、やっぱりありそうだなー、と思いついて、このあたりの感情を「負の感情」と呼ぶことは、可能なのでは? ということも、合わせて思った。
▼▼公の場で人に言うのには適さない感情──わざわざ人に向けて言って回ることで「危害」を予感させうる気持ち、というものが、あるかと思うので、このあたりを「負」と呼ぶのは、いちおうアリなんじゃないかな、って思えた。
▼▼経験を顧みつつ、ある感情があることを(言葉や態度から、ほんとうに「胸の中に抱いているか」ということまで含め)を判定して、危害確率を、見込む。怖さを想像してみせる。ここに対して「負」っぽさを「観」るのは、まあ、なんとなく納得のゆく言葉使いかなあ、と思ったのだった。怒りや哀しみに対して「負」なるものを「観」てしまうことについて、こういった構造で想像するなら、なんとなく納得できるか、って感覚だ。



▼▼というあたり、あんまり派手な気づきの切り口ではなかったのだけど、社会/組織/集団の維持に反する、とか、危害可能性、とか、そのあたりのものを基準に「負」という言葉を見つめるの、これまでおそらくほとんどやったことがなくて、あれ、なんでこれ思いついてなかったんだろ、と思ったので、書いた。驚きつつ書いた。

週刊では待ちきれない好き

▼▼週刊で読めたり聞けたりする、というペースって、けっこうな頻度(の情報摂取)なのだと思うけど、すごく好き、という段階になると、週一の情報更新では足りなくなるところがあるなー(週一では物足りなくなった、っていうところに「すごく好き」という気持ちの境界線がありそうかな)。

異世界転生的人格消失

▼▼異世界転生で「意識を失って、はっと気づいたら、異世界の子供、あるいは少年や青年として、目覚めた」といった転生が行なわれていることがあるけれど、こういう時、前の人格というか、もともとあった「自我」や「私」を、消したのだ、殺したのだ、と認識しているため──殺害からスタートしている、と思っているところがあるため、このことに対して、なんの気持ちや思考も描かれていないと、せめて説明っぽいものがないと、ええー……、ってなってしまい、納得がいかなくなったり(好みの感覚や視点で描かれた物語じゃないかも、と思ったり)する。
▼▼無論、それが伏線になることだってあって、意味があったり誤解があったりすることもあるので、端的に判断できるようなところでもないとは思っているのだけど……(伏線として扱われる可能性があるなら(ここに思考フォーカスがいったん当てられているのならば)、それが判るような言葉選びをして欲しい、というのはある)