世界は称賛に値する

日記を書きます

親知らずを抜きました(左下)

▼▼親知らずを抜歯した。ここ一週間ほどのあいだに、なぜか複数の親知らずを抜歯する話を聞き、しかもけっこうキツかった、というのも聞いて、さらには、経験的に滅茶苦茶苦しんでいる人も複数回見たことがあったため、大変ビビっていたのだけど、まあ、まあまあだった。横向きにはえていて、上部を歯肉が覆ってしまっている、という形状の、比較的面倒そうな状況だったのだけど、思いのほか、なんとかなった。手前の歯を削って隙間を作って引き抜いたようだ。施術中は、おおきく口を開けた状態を維持しておくための顎の痛みがあっただけで、歯の周辺には痛みはなかった。施術は30分で終了した。麻酔が切れる前に鎮痛剤を飲んでおいたほうがよいよ、とは聞いていたので、見逃さないように飲んだ。鎮痛剤を飲んでいれば痛くない程度だった、と言える。まあ微熱は出た。これも薬で下がった。傷口をおおう血の塊がなくなってしまうと地獄の痛みだ、いわゆるドライソケットになると一ヶ月くらい痛む、ということも知ったりしたので、うがいや食べ物には気を使った。沢山ゼリーを食べた。ゼリーは好きなので幸せである、と認識した。

悪い芝居リインカーネーション『春よ行くな、』を観劇しました

悪い芝居 Official Site

▼▼一つも、何も、言葉も意味も、躰さえも、届いてなかったんじゃないか、とは思いそうになってしまって、でも、思わず意識してしまう寂しさや哀しさが、いやいや、一つくらいは、何か――そう何かが、届いていたりもしたんじゃないか? 届いたものがあってもよくない? あの物語にも何かがあったんじゃないか? と思わせようとしてくる。寂寥や哀切の引力によって、そう考えたくなるほうへ、引っ張られていく。追いやられていく。
▼▼というような、断絶の、いや、届かないことの(届かないことは断絶なのか? 断絶という言葉がそぐうのか? そして、ほんとうに「届かなかった」のだろうか……、と、幾度となく問い直してしまう)、そして、それでも届かせようした意志と、届かないでもよい(届いたほうがよい)(届かなくてもよい)、あたりのことにまつわる物語、として、悪い芝居リインカーネーション『春よ行くな、』という演劇を観劇してきました。▼▼あれは届いていたのか? 届いていなかったのか? というか、届くということとわかるということは違うのか? というような疑問群が、脳内でくるくると旋回していて、これは素敵だーと笑いながら、今はそれを観察している。記憶がほよほよしている。


▼▼京都を拠点に活動する集団「悪い芝居」の公演である。関西公演を終えたあとの、関東公演だ。東京都中野区中野で観劇した。中野駅には初めて降りた。中野の劇場「テアトルBONBON」に足を踏み入れる。「悪い芝居」の舞台は「赤坂レッドシアター」での経験が続いていたため、新鮮と違和も楽しめた。劇場の特色も楽しいものだと思った。


▼▼リインカーネーション、という言葉を冠しているとおり、今回の公演は、悪い芝居Vol.15『春よ行くな』の再演、再生、であったわけなのだけど、じぶんが「悪い芝居」の公演を見るようになったのは悪い芝居Vol.16『スーパーふぃクション』からだったため、無論、この物語を見るのは初めてだった。『スーパーふぃクション』『キスインヘル』『メロメロたち』という流れを経てきたあとで、ここに辿り着いた(戻った?)のは、なんとなく、けっこうよかったんじゃないかな、という気もしている。この届かない物語が――この赤裸々な届かなさが――この通奏低音的に響いてきそうな届かなさの音あるいは光が、実際のところ、どこに打ち立ってくれたのだとしても結局楽しめただろう気もしてはいるのだけど、まあでもともあれ、じぶんが出会ったものに素敵というほかないし、ということも含めて、今回、おお、よかったじゃん、って思っていたりするのだった。今はそうじぶんに声をかけている。

悪い芝居リインカーネーション『春よ行くな、』 大原研二&山崎彬インタビュー - げきぴあ

【※ネタバレ注意】悪い芝居リインカネーション『春よ行くな、』感想と期待のツイートまとめ - Togetterまとめ


▼▼そしてズイショさんの『春よ行くな』(最初の公演)の感想をめっちゃ読み直しました。とさ。
zuisho.hatenadiary.jp
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『タイムボム』『アン・ギャルド』『バトルライン』『ドミニオン』で遊んだ(ボードゲーム)

▼▼好みが分かれる――好きなものや相性のよいものがおのおので少しズレている、という情景が好きなんだとは思う。雰囲気を眺めながら楽しんでいることがわりと多い。ボードゲームを遊んでいる時に頻出する状況だ、とも言える。楽しい、好きだ、というような言葉は比較的重なりがちかと思うのだけど、大絶賛するような声まで重なることは少ない印象があるのだ。
▼▼というような中で、以前から「極めて好きだー」とか言っていることの多かった『タイムボム』というゲームが、じぶんの周辺で、っこ最近、目立っているなと思うくらい絶賛されるようになってきていて(ふと気づくと取り出されている瞬間が多くて)、なんとなく、驚いている。こんなふうに絶賛が重なることってあるんだな……、というような違和を覚えている。想定よりも「万人向け」かつ「初心者向け」で「手軽でありながらバランスのよいゲーム」だったのだな、と、評価を改めている(いやまあ、感じてはいたのだけれど、確信的な感覚で、これスゴイやつだ、と思えるようになってきている)。


▼▼昨夜もボードゲーム夜会であった。
▼▼勤務後、帰宅してすぐさま『タイムボム』に参戦した。▼▼対戦後は『アン・ギャルド』→『バトルライン』→『ドミニオン』という流れで推移したと記憶している。


▼▼『アン・ギャルド』はフェンシングの試合を模した二人対戦ゲームだ。流れを掴んだほうが勝つ――流れに乗れたほうが勝つ、という雰囲気が強く出ていて、おそらくそこが好きなところだろう。直線的な場の上で、より前に出ていたほうが勝ち、というルールが強く琴線に触れているかとも思う。
▼▼『バトルライン』は横並びの9つの戦場のうち、半数以上である5つを先に勝ち取るか、連続横並びに3つを先に勝ち取るか、を達成したほうが勝ち、というゲームだ。戦場における部隊の配置を模している。各戦場には三枚までカードを配置することができ、戦場ごとにポーカーのような役を作る。水を浸した洗面器に顔をつっこんで苦しくなって先に顔を上げたほうが負け――我慢しきれなくなったほうが敗北、というような雰囲気が強くて、「洗面器ゲー」なんて呼ばれかたすら聞くゲームである。ぜんぜん置きたくないカードを(置かないと駄目なので)置いていきながら、なんとか、ぎりぎり耐えつつ、役を掴み取る。不要なカードをどの戦場に「捨てる」かを決め、しかし「捨てながら、意外に活かせる道があったりしないかも探し」つつ、各戦場での勝利を掴む。「この戦場の勝ちはもう確定してるはずだよ」と宣言して、ロジックを説明できたら、その戦場の勝敗を確定させてしまうことができる(もうカードを置けなくさせられる)、というようなルールがあって、ここがキモなのか……! と判ってからは、より楽しくなった。今は苦しいがあそこに要らないこのカードを置けば短時間だけならばまだ耐えられるだろう、なんてふうに思っていた隙間を、突然、奪われるのだ。あるいは奪える。
▼▼『ドミニオン』は、ひさしぶりに遊んだ。思った以上の接戦だったうえに、お、おそらくこれ、勝っただろ、なんて軽く思っていたら、結局、最下位だったので、けっこうな衝撃を受けた。勝利点のカウンティング(頭の中で点数を数えておく)が、やはり重要かあ……。まあ当然とは言えるけども。一位であろうプレイヤーの勝利点を観測しておくだけなら、このゲームの場合、それほど大変じゃないし、サボりすぎとは言えそう。
▼▼『カルカソンヌ』でも遊んだことを完全に失念していた。追記しておく。

アン・ギャルド 日本語版

アン・ギャルド 日本語版

ボードゲーム バトルライン 日本語版2016

ボードゲーム バトルライン 日本語版2016

ドミニオン 日本語版

ドミニオン 日本語版

世界の決め打ち第二弾(定義の話をしていぶりだす)

▼▼三日前の日記とほぼ同内容と言える(別の言葉が出てきたので記録)(後半は逸れていった)。


▼▼例えば、人は(命は?)初めからおしなべて素晴らしいのである、というような命題があったとして、この言葉に対する、賛否。▼▼確かにそうだ、素晴らしいぞ、という認識を共有するにせよ、人それぞれ、少しずつメカニズムが違ったりもする。▼▼人とは? 命とは?素晴らしいとは? という境界線での差異もあるだろう。
▼▼というような答えのない(各自が、じぶんの経験に基づいて――集まった情報や知見に基づいて、感覚などを踏まえながら、決めるしかない)問題について、まあでも、正解はないよねー、なんてことは思いつつも、たいてい、おおよそのところは、ある程度決めながら、普段生きているんじゃないかと思う――無意識に決め打ちながら意志し行動してしまっている、んじゃないかと思う。時々は(人によっては頻繁に)ふと、立ち止まって考えてみたりもするけれど、普段は、なんか、脳内で慣れたもの、身体に馴れたもの、を行使してしまっている、事柄。
▼▼このあたりの、思想、信念、信仰に潜っていった話が、好きである。


▼▼何が素晴らしく、何が正しく、何が美しいか。何がしたいか。何を望むか。何を排除しようとするか。


▼▼この話、「決める」って単語使うの、あやうくない? とは最後に思った。


▼▼定義の話を丁寧にしていくのってけっこう手間なので、嫌がられたり、実際にじぶんでも面倒に思ったりすることがあるのだけど、おおまかかつ規模のおおきい(人生観や世界観や価値観にまつわる)話をする時は、そういう「境界線」を詰めていかないと、好きな話に辿り着けない(相互の齟齬を見極めるための「繊細な違い」がいぶり出せない)ところがあるので、ま、じぶんは、定義の話も好き! って言うしかないところは(も)、ある。あるなあ、という落ちで思考が終わった。

meltylove.hatenadiary.com

思ってもないことを、思ってることの一部だけを、言う(という、相手への寄り添いかたと、そういう言葉の書きかた)

▼▼説得というか相談というか、不満や愚痴にコメントを行なって落ち着いてもらおうとしているような時の、思ってもないことを言ってる感というか、「思っていることの一部分を(強調的に)持ち出してる」感に、すごいな、って思った。読み手を意識して文章を書く、という意識の形って、要するにこれなんじゃないかな、ということも思い直した。