世界は称賛に値する

日記を書きます

実践者的フィードバックを得て、評価の眼が変わる(ことに対するワクワク)

▼▼これまでは「お客さん」として見ていただけだったけど、遊んでみたくなって――試してみたくなって、じぶんも挑戦してみました!→観光者的に鑑賞していた時は完全に見逃していた(難しいものだとぜんぜん気づくことができていなかった)難しさが「ここにあるんだ」と気づきました!→以後、鑑賞時には、これって簡単に見えるけど――見逃しやすいけれど、実はここに「スゴイ技術」「スゴイ努力」があるんだ、ってことが判るようになりました!→なるたけそのあたりを強調したくなる意識状態が生まれました!(インパクトが――傷が、強すぎて、しばらくは(人様などに)押しまくってしまうところもあるし、時間が経ってある程度落ち着くところも、あるけど)
▼▼というふうに「判断基準が変質する」場面、って、ほんとうによく見る。ぜんぜん想像できていなかった……!という衝撃を喰らっている。新たな実践を試みるたびに出くわしている気はする。

▼▼っていうのが常に恐怖なのだよなー、と気づいた。怖れというか畏れ? 畏敬だ。屈服と尊敬の合いの子を胸の中に抱いていそう。
▼▼真面目な話、世の中って、実践したことないものばかり、だからなー。
▼▼だからつまり、世の中に無数にある「実はここが難しいんだぜ……!」を、ほとんど理解できていないはずなのである。経験から言ってそう想像できる。
▼▼それはコワイ、それは嫌だ、なんてところだ! とか言ってよい感覚は、あるかなと思う。まあ、文句言いつつも楽しい(ここがこうだったらよいのに、って言い出したらハマっている証拠)という話でもあるけど……。▼▼まあ、とにかく、なんか、うーん申し訳ないっス!というか、でも頑張りマス!というか、イエーイ!(?)という感覚があるのだった。あーあ、って言いながら笑ってる感じかなあ。恐怖困惑不満も痛きつつ、ドキドキワクワクも隠せていない。

▼▼何かを評価しようとするなら、実践者にだけ判る(実践者には判りやすい)苦心や工夫を理解できていないと駄目――鑑賞者/批評者/お客さん、が、何か評価しようとするなら、ぼくは判っていますよー、とか言ってよいレベルに達してないと駄目――実践者の行動や思惑を真っ当に理解し、知ったことにより「判断基準が変質」してないと、聞くに値しない、とかは、ほんとうにまったくもって思っていないのだけど――そういう切り口が正当だとは微塵も思ってないのだけど、でもまあ、とはいえ、うわ! ここ、こんな難しいんだ! じぶんでやってみないと判らなかったけど、これスゴイな! 次からは見るところ変わっちゃうな! 目線が変わるの素敵だ! という感覚や情景が好きなのは間違いないので、そういうところもいちおう押しつつというか、実践者と鑑賞者のあいだを行き来してみせることは大切にしておきたいというか、そんな感じの「思考背景」は背負っておきたいな、と思うのだった。