しあわせ(嫌な)日のはなし

▼▼明確によいことがあった日/強烈に楽しかった日、逆に、派手に/地味に、不安事や不快事、嫌なことがあった日、などに、このあたりのことを日記として書き残そう、って狙って書き始めることが結構あるのだけど、書き切れたことがあまりない。▼▼あえて開示的に残しておく言葉として「幸せだ」「不幸だ」──「楽しかった」「嫌だった」とだけ書いてもなー、とは思ってそうなのだった。情感言葉だけ遺すんじゃ足らないと思う。
▼▼幸せそうに思わせるなら「幸せだ」って書いちゃ駄目でしょ、って認識がある、ってあたりのこともある。よいやりかたではないな、経験則が阻害してたりする。
▼▼読み手に「悲しい話」を提示するなら、じぶんの文章で「悲しい話なのです」って説明するのは悪手であって、読み手が読み終えた時に「悲しい話だねえ……」って言うよう仕向けねばならないのだ、っていう、以前に読んだ文章術の話が連想された。
▼▼嬉しい、悲しい、幸せだ、不幸だ、っていうような「情感のひとこと言葉」を単純に相手に読ませても、同じ情感を起動させることは困難(むしろ抑制すらさせがち)、っていう言葉の性質、は、言語化することで客観視できて落ち着けるよねー、っていう言語の素敵な機能が逆転的に働いちゃってる雰囲気あるなあ、ってふと思った。
▼▼幸せ……!と思えた瞬間の「五分前くらいから五分後くらいまでの挙動」を細かく描写してみせることで、幸せ雰囲気を確かに醸し出せるかも、とは思えたりした。▼▼っていう経験則があんまり明確に製造できてなくて、選択できてなかったようだ。
▼▼というような、なかなか臍曲がりな話の流れが、最近わりとよいことがあってニコニコしていますよー、っていう背景から出てきた言葉なのだった。おにか?