片付けるスイッチで意識モードチェンジ

▼▼惰性化、日常化、パターン化に侵食された生活風景、と、人生全体や将来を踏まえて、今日を零や起点として認識する生活風景、このあたりの意識のモードって、二つくらいはあるなあ、なんてふうに思った。
▼▼時々、ふっと切り替わる。相互に行き来することがある、っていうよりは、前者からぐぐっと後者に切り替わる瞬間に、妙に痛烈に意識できる、という感じだろう。後者だった意識モードが前者に移るときはあんまり意識できない。できていない気がする。いつの間にか惰性化しているのだ。まあ「惰性」という言葉がそもそもそういうものだ、という気もするけど……。いつの間にか「昨日と同じ今日」を見ちゃってる、「昨日と同じように生きる」ことを選んじゃってる、という感じだ。
▼▼昨日から地続きの今日。昨日までの対処と同じ感覚でこなせる今日。すでに知ってる今日。躰に染みついたものを活かして生き続けられる今日。こっちに関しては(というか惰性というものは)「躰」頼りの概念、という感覚があるかなあ。
▼▼対して、人生を背景として見つめられるような、全体的な、長期的な、俯瞰的な、意識は、認識主体、思考主体、脳みそや眼差し主体、みたいな感覚があるような気がする。論理主体、ということでもあるのかなあ。
▼▼丁寧な思考、静謐な思考、あたりのものって、やっぱり、全体的/長期的/俯瞰的な眼差しに繋がる、というか相性がよいというか、表裏一体というか、繋がりが非常に濃いのでは?(あるいは実は同一人物ですらあるのか?)みたいな疑問が湧いてくるんだけど、ここについて、完全に繋がってますねえ、ほぼ家族みたいなもんですよ、とか言い切ってしまっていいのかは結構迷う。落ち着けば落ち着くほど、丁寧になればなるほど、思考いうのは、視野というのは、拡がっていくのか? みたいな疑問の柱は、とりあえず立てたくなる。
▼▼最近、家事が改めて好きだ、という雰囲気になっている。なんかこの、家事がわりと好きなのは、丁寧な思考や静謐な思考、そしてそこと繋がりの濃い「落ち着いて人生全体を眺め回すような眼差し」を呼び覚ましてくれるところがあるな、と思えるから、だったりする、ということを考えていた。
▼▼家事っていうか「片付け」と言ったほうが妥当かもしれない。
▼▼「片付け」は眼差しを長期型に切り替えてくれるところがある気がするのだ。
▼▼「片付け」は未来を見据えてないとできないから(やる意味を見出せないであろう行為だから)だろうか。
▼▼片付ける、ということは惰性を潰してくれる、という経験則の話でもある。
▼▼しかし、片付けることが惰性化しちゃったらそれはそれで結局「惰性を打破してくれるもの」にはならなくなっちゃったりもするのかなー。と考えてみて、うーんまあそうかもなあ、という気もしてきた。単純に、普段あまり片付けをしていなかったから、たまにすると新鮮! 惰性が消える! 惰性的人生目線が刷新されて、目新しい世界が拡がってきて、人生自体、まで見えてくる、というようなことなのでは、って気もした。
▼▼あと、片付けることの意義を「未来に繋がるから」みたいなところに見出す話をしてしまっているけれど、ただとにかく、丁寧に場を整えてみせる――荒れていない状況を眼前に現出させてみせる(未来の問題ではなく、今、目の前に綺麗な光景がただ広がっているようにしてみせる)、っていうことだけであっても、心はそれなりに落ち着いてくれる気もするんだけど……。それもまた人生全体を見つめるきっかけになってくれる気がする。だから未来性の問題ではないのかも(もしくは半分くらいかも)