世界は称賛に値する

日記を書きます

断言(哲学流と文学流)

▼▼内心はどうあれ、確信はどうあれ、断言してみせたほうが文章はよくなる、というような誘惑には、時々駆られる。やっぱりそうなんだろうか、そうっぽい気がする、その傾向はある気がする、って思い始める。有耶無耶に、曖昧に、自信なさげに、書くくらいなら、そのほうがよい、っていう感覚は理解できるのだった。歯切れ悪いよりは歯切れよいほうが綺麗な文章になる。というようなことを思っているのわけだけど――思っていることについて改めて考えていた次第なのだけど、歯切れの悪さというか、歯切れの悪さが見せる気持ち悪さ、の、対抗馬や対抗策として――逆側に、断言、ってものがあるわけじゃなくない? って気が(気も)少ししてきた。断言はしてないけども歯切れが悪いわけでもない、という道もあるんじゃないの? って予感が出てきたのだった。イメージできる気がした。断言しきれなそうだと思いつつ断言してみせてしまう、のではなく、断言しきれないものについて断言しきれないっすよねーとは描きながら、しかし、文章としては結構すっきりしている、はきはきしている、曖昧さやぼんやりの感覚がない、というようなものもあるんじゃん?と思えたのだった。余計な口を挟まない、無駄口叩かない、ってだけでもこのあたりの雰囲気が違ってくる気がするしなあ……。こういう「断言とかじゃなくて会話の流れに関するよどみ」あたりの延長線上に、なんかあるだろ、ほかの打開策もあるっしょ、という感覚かなあ。あえて断言してみせるかどうか、ってことだけを分水嶺として見つめるのは雑判断だろ、って思った。
▼▼そもそも、というかこの思考の背景として、現状のじぶんが断言的に思えていないものを断言調で言葉にしてみせること、って、なんか嫌なんだー、という気持ち、趣味嗜好や美意識、あるいは、大切にしてるところ、がある、ということは自覚しておいたほうがよさそうだ、っていうのも思った。
▼▼文学の人と哲学の人、っていうような人間の思考面にまつわる区分を、時々、思い浮かべてしまうのだけど、じぶんやつはまあ、哲学の人寄りと言えるんじゃないかなあどうしても、ということも一緒に思ってしまったりしている。文学の人が見せる口調は好きだけど(ほんとうに大好きなんだけど)、そこに徹しきれないところがあるというか、信じ切れないところがあるというか、それをそんなふうに言ってしまっていいのか、というような不安が出てきてしまうところがある、のだ。
▼▼それを言うことが素敵なことであることは判るので、素直に認められるので、言ったほうがよいよね! ってことは真っ当に思いながらも、しかし裏腹に、これ、こういうふうに言葉にしてしまっていいんだろうか、という違和というか疑問というか「不思議さ」が出てくる感じ、かなあ。この言葉があることは素敵だ、好きだ、しかし、ぼくが言って増やしてしまってよい? こればっかりでよい? ここに触れてばっかりでよい? なんて心地が出てくる。
▼▼無論、文学の人と哲学の人、という区分、結局どういう感覚なんだね、どういう感覚から来てるんだね、ってことも無論思っているわけだけど……。うーん、このへん、明文化できてないところはかなりある。つまりここからすでに結構怪しく危うい感じなところはかなりある。
▼▼どちらも言葉を大切にしていて、既存の文脈におもねらない、というところは、まああると思う。共通しているのではないかと思っている。
▼▼断言。そう、断言の話なのだった。そうそう。文学と哲学では「断言するところ」が違う、気がするんだよなー。
▼▼文学って、なんていうかロックというか反骨精神というか(ロックが文学なのかもだけど)、断言できない曖昧さの中ではあえて断言し、断言されがちな判断の甘さの中で断言を殺す、というような印象がある。戦うスタイルだ。哲学における断言は、そこにはない気がするんだよなー。もっと厳密というか、もっと下地がちゃんとしてるというか、いや、下地が違う? 頼りにしてるものが違う、みたいなことかなあ。
▼▼論理性の中でのみ断言するのだ、というような雰囲気は出たんだけど、これちょっと怪しいよなー。文学と哲学だと哲学のほうがよりロジカル(論理頼み)、みたいなことは言えるような言えないような。文学がほうぼうで見せる反骨精神やけんか腰って、哲学も見せがちだけど、哲学は「論理(というか納得?)」に対しては、あんまり喧嘩売ってない気もする。もしかしたら「納得に喧嘩売れるのは文学の専売特許」かも。
▼▼哲学と文学では「経験」の扱いが違うんじゃ? 経験と納得の結びつき、っていうかなあ。みたいな発想が突然湧いたけど、整理しきれずに今日の日記は終わる。
▼▼こういう話も、調べればそれなりにあるだろう。学問領域を調べることで納得ゆく見地がごろごろしていたりするんだろう。という感じの、文献調査に大切さ、ほんとうに頭を進めたいのならば、そういうのもちゃんとしたほうがよい、のだろうなー。補助線なりなんなり、探したらよい。でも、通勤しながらぼんやりこのあたりのことをうごうご考えてるのもよいものだ。