意志、を幻想や錯覚の産物としながら、芸術、を見做す立ち位置ありうるか

▼▼意志や意識、思考、記憶、腕や躰や眼が覚えたもの、人間の習性、等々を謳いあげながら話される「芸術の話」を、まあまあ見かけるよなー、って思ったりした。
▼▼世界と対比できるものとしてのじぶん、世界と響き合ったり融合できたりするものとしてのじぶん、世界と時間の中で頭や腕や躰を育ててきたものとしてのじぶん、あたりを芸術行為の基点として、じぶん/人間、の、特別さ、特殊さ、大切さ、境界線、あたりを前提とする、っていう認識が、芸術の根底にあるような、とか考えていた。
▼▼普段、日常、意識されていなかった──認識されてこなかった、あなたの頭や躰や腕に刻まれてきたもの達が、丁寧さと慎重さと鋭さのもとで、言葉や絵柄の力を借りて発現し発露する、のって素敵だよね楽しいよねー、って説明を受けて、芸術ってば素敵だなと思ったり、創作や表現は楽しそうだって思ったり、幾度となくしてきている──試したり遊んだりしてきてるのだけど、こうして「ぼく」と「世界」が向き合ってきたことで「なにか」があった、ぜ──ぼくが出せる「なんか」がある、ぜ、っていうようなことばかり追っかけてよいの……? なんて思ったのだった。
▼▼じぶんを世界の一部とする──人間を世界の一部とする、意志や意識の特別性や特殊性を放棄して廃棄して世界を見つめる、なんてあたりの、自我廃棄型、無我型、の目線も好きなので、ここから芸術のようなものって誕生しようがないの? いやむしろ「だからこそ」とか思ってうまいことやってる芸術家もいるんでは? と続けて思った。芸術家達がこのあたりの違和に挑戦していかないわけないよな、的な期待と想像だ。
▼▼世界と自我の噛み合わせの隙間にあるものを出してみようぜ、って謳い文句や誘い文句の話、と、突き詰めていく芸術の向こうに無我や世界との融合を目指していくような理想型の話、は、おのおの見聞きしてるし、実際の世間における動向やおすすめ、組み合わせかた、ってどうなってるんだろう、って思った次第かな。