世界は称賛に値する

日記を書きます

遠方の雨空

▼▼早朝から遠くまで出向いたのに空を仰いだ記憶がないなあ、と記憶を掘り返していたら思った。風景描写が脳裡にぜんぜんないぞ、と気づいた。不快空間と認識してて、精神的に満ち足りてなくて、視野が狭まってた、ってことなのかな? と疑問を浮かべてみたけど、あ、単純に雨降ってたからだわ、って気づいて溜め息ついた。安心もした。
▼▼雨降ってる、のと、景色ぜんぜん見てなかった、が、繋がる論理を、相手側に「想像せよ理解せよ」と求めてる文章だ、ってことを考えた。雨降ってるとなんで景色ぜんぜん見てないことになるの? って尋ねられる可能性を思って、明記するか迷って、考えた。
▼▼読み手に負担をかけたら駄目である、なんて基盤からの注意と推奨は、聞いたことも考えたこともあって、普段は影響下にもあるので、前項の文章を「読み手側に負担を負わせる文章」と同類項にまとめてしまいたくなっちゃう気分も──駄目な行動だと判定しつつ「やらかしてる」と悔やんで改稿したくなっちゃう気分も、確実にある。のだけど、説明がうまく繋がる論理をじぶんで考える──手ずから論理を繋げる、って要素が「文章を読む時」の楽しさにおおきく関係してくるんだよねー、なんて思える面も、経験的に強く認識していたりするので、読み手に負担かけたら即座に却下だ、なんて、単純/単調/粗雑に考えすぎちゃうのもやっぱり違うよなー、型通りすぎて妄信すぎて頭固すぎて、判断ミスの確率が濃厚だよなー、って考えていた。
▼▼適切に取り扱えば「負担」だって逆に大切なのだ、とか、こういう状況は「負担」とは違うのでは?──ミスリードになっちゃう? って形で、慎重に「気をつけられて」いないと、誤認しちゃいそうだ、って思った。
▼▼説明を聞いて帰路につく。続けて深夜勤務的な手伝いがあって、遊ぶような雰囲気でこなせるものだったので、優雅にこなした。朝の光を浴びつつ家に着いて寝た。