特別で格別な感情の動きが毎日あるような派手な日々、を視る身体性と倫理性

▼▼特別で格別な感情の動きは語りやすい。言葉にも文章にもしやすい。熱意の問題なのかなー? あるいは勢いというか……。▼▼とか書いてみて、特別と格別ってのは何が違うんだろうか……? 熱意と勢いは違うのかいな……? と思ったというか、思いながら書いたというか、思うだろうなあ、って想像しながら書いた。思わせたくて書いた、とも言える、かな。違い考えるのはあとでよかろう、違うのは違うのだ、とも考えていた。
▼▼特別で格別な心の動揺が日々現れ積もっていく──積もっていくような日々、なんてものを、どう捉えうるのかなー、って、わりと頻繁に、考えていたりする。嬉しく思えるかは正直怪しい、し、哀しく思えるかも結構危うい、なんて思えてしまうせいだ。
▼▼静かなる日常、変わらない日々、常日頃、普段、普通、いつも通り、等々を、巧く称揚したいような、適度に下落させたいような、移り変わりと行きつ戻りつが、ある、っていうのは間違いない。まあ、眼前の「特別で格別な感情の動き」が、胸の裡にとって、心地好いか具合悪いか、で決めてるだけでしょー、なんて言われるなら確かにそうなのだろうけど、簡単に言うと、種類で心地好いか具合悪いか決まるわけじゃないようなので、線引きは何処なのかなー、と思っている、って状況なのだろう。当然ながら、すべての歓喜が心地好いわけでも、すべての悲哀が具合悪いわけでも、ないのだよな……。言い換えるなら、妙に具合悪い歓喜も、変に心地好い悲哀も、ある。ありえてたよなーって思う。
▼▼って話題から、話題を身体性に繋げる案と、話題を善悪概念に向ける案が、非常に不透明ながら登場してきたわけなのだけど、現状では検証ぜんぜんできてない。性癖的身体的生理的な心地の良し悪し、なんかと、倫理的な具合の良し悪し、あたりに、選別が可能なのではないだろうか、なんて雰囲気を認識しているのかな……? あるいは、物事のよしあしってものを考える時に、経験則か何かによって、思考停止的に「身体性」と「倫理性」ばかり見るようになってしまったのだろうか? これ、ありうるよなー。嫌だなー。