火曜日の始まり

▼▼いわゆる「フローとストック」っていう概念で文章術とか書けたりしないかな、とか考えてみた。現在形と過去形、あるいは現在進行形、が、混在してしまう理由──混在させてしまう理由を、説明できないかな、って思ったのだった。変化描写と現状描写を、交互に脳に与えると、理解しやすくなる、とか、粗雑ながらそのような雰囲気で。

後年の自分向けニュースというか単なる備忘録な気もしますが感銘を受けました。

→ 「特に何があったってわけじゃないんだけど、ぼくらは色んなものを与えてもらってきてるんだと思う。たぶんそれらは自分たちで意識しようと意識しまいと、確実に血肉になっていて、結局そこがベースになる。でもぼくらは揃いも揃って忘れやすい生き物だから、そういった自分の人生を変えるほどの体験をも忘れてしまい、たまに大幅に間違えてしまう。だから、1980年9月 18日に生まれた自分が、どうやって世界から色んなものを貰ったのか、つまりは自分の親は誰なのかっていうことを、後年の自分たちのために書き残そうと思う」

→ 「つまりぼくは、「意味」は言語の機能であり、本質とは考えていないということです。すみません。どーちがうんだーと言われると説明はなんだか難しい。しかし、例えば「三角形の本質は辺が3本あることだ」と言われたら、なんだか違う気がしませんか。これは冗談ですが、三角形の本質とは「少なくとも尖った角が 2つある(ので刺されると痛そう)」とか、そんなふうに、そのモノの有様から必然的に導き出される何かのことではないでしょうか」

→ 「実を言いますと、私も、先の「直前の過去を表す四つの時制の使い分け」についてドイツ人に質問したのです。しかし、「ドイツ語は筆者に大きな自由を与えている」といった返事しかもらえませんでした。無意識の内になされている事にこそ法則が貫徹しているとは、これも関口氏の言葉だったと思いますが、こういう事も分からない人には学問は無理だと思います。何かあったら直ぐに「そこにはどういう法則があるのかな」と考えないような人は、学問の異邦人だと思います」

→ 「哲学の世界を見ていますと、この共産党に対してどう考えてどういう態度を取るかという問題をほとんどの方が避けていると思われます。共産党に賛成して入党すれば好いというほど単純なものではありません。例えば、私のかつての指導教官のT氏は、その死去したときの「しんぶん赤旗」によりますと、共産党を応援する学者・研究者の会の会長だったそうですが、自分のそういう生きかたを理論的に明らかにしませんでした。これでは哲学ではないと思います」

→ 「将棋をシリコンバレーで見るのが最先端なんでしょうかね。将棋を指している現場が最先端でしょう。梅田さんは最先端であり続けるための競争を放棄して、「現代将棋を誰も構造化していない」とか言い始める。現代将棋を構造化するのは将棋を実際に指す人がやるべきことだよ。ゲームも然り。コンテンツも然り。 webもそうじゃないかな」

→ 「全ての物語は、少しずつ重ねた紙のように積み上げられて行って、でも単純に上へ上へと積まれているだけじゃなくて、それぞれの物語がそれぞれの物語と複雑に部分部分で重なり合っている。その全体的な構造は把握不可能。読者はその物語の中をベルト無しのジェットコースターで揺られて振られて振り落とされて、落ちた先でまた別のジェットコースターに拾われてぐわんぐわんと疾走する」