比喩としては「塩を軸にした●●」とかを使って説明を終わりたい

▼疑問と疑念と疑惑と疑義と疑心。を、例えば区別していたりはする。選別して使ってはいるつもり、なのだ。疑問を向けるのと、疑念を向けるのと、疑惑を向けるのは、微妙に違うものであって、ま、おおきく違うこともあって、峻別し使い分けている。差異を見ようとしてはいる。疑義を向けるのだって疑心を向けるのだって、別の現象だろう。
▼疑問という概念って、わりと「疑い」から「疑い」を純朴に取り出したものかな、と感じている。狭義の疑い、なんて言える。▼疑念という概念の焦点やアクセントは精神や思考にあるだろう。疑問が混じっている思考や精神をそう呼ぶ、とでもいうような。▼疑惑という概念は、むしろ状態を指示するんじゃないかと思っている。疑問が混じっている精神、ではなく、精神に混じっている疑問、というか。▼疑義という概念は、強く重く、明確に意味的なもので、つまり、解釈段階、なんて言えるかな、とは感じた。比喩で言うなら原子とか分子とか言えるレベルで、だから、前述した「疑問」は「鉄や水といった素材や原料」って言えたりもしそうだ。▼疑心という概念はつまり「疑問的精神性」を総称してみたもののことかな、なんて思う。範囲が薄く広い。まあ「心」の範囲に引き摺られているんだろう。思考も情動も解釈も意味も感覚も決意も「心」の範疇だ。
▼なんて言ってみて、要するに疑念と疑惑が対置したりしていて、つまり、疑問概念の混じった精神、と、疑問が混じった精神状態、の差で、総称しちゃうと、あるいは、簡単に言っちゃうと、疑心になるってことかなー、なんて思ってみた。言わば、塩味と塩加減と塩料理の関係ではないだろうか。ま、塩料理ってなんだよ、って指摘は的確だろう。塩風味と塩、も組み込むと、混乱極まるのでは、と期待してみたりもした。