細部を捨象し、つまり概念化し、眼の前のものを「同じ」と看做す才能

▼同じ、と看做す判定基準を人間は持っている。というのはわかる。同じ、と看做す才能があるのだろう。比較可能な近似値に変換して盤上に乗せる、ということができるのだと思う。でも、思う。物体Aと物体Bを見て、両者ともに「林檎」という同じものだ、なんて看做す視線が感じている「同じ」と、自己同一性、という概念の裏にあるような、昨日の君と今日の君は同じ人物である、とか看做す視線が感じている「同じ」は、同じものなのだろうか。存在の同一、と、種類の同一、の背後にある「同じ」は、もしや、同じものではないのでは、と思える。形式や構造が違う、と感じる。再考の余地があるとは思う。