世界は称賛に値する

日記を書きます

素敵だと思った時に素敵だと言う習慣があるなら、素敵だと言うことは素敵であることを意味するわけであり、おのれが素敵だと思えてしまったりしたら、歓ばずにいられるか

▼素敵だ、って言われると嬉しくなる。嬉しくなってしまう。誰かの称賛が歓喜に繋がるのだ。つまり、称賛の言葉が「歓ぶべきもの」として認識されているのだ。なぜ「歓んでしまう」のか、と考えてみた。称賛の言葉によって何が変わると言うのだろうか。たぶん認識だろうな、と考える。簡単に言うなら、おのれに対する認識、が変わるのだろう、と思った。誰かに称賛されると、称賛される前までとは、おのれに対する認識、が、いくらか変わる。違いが発生する。という「違い」を「歓ぶべきもの」と認識しているのだろうな、なんて考えてみたのだった。では、称賛されると何が変化するのか、と考える。おそらく「属性」が変わるのだと思う。称賛されると、称賛されうるものである、という属性が付与される。称賛された、という属性かもしれない。いずれにせよ、称賛とは無縁ではないぜ、という関係性が獲得される。認識がそういう形で変わる。称賛、という行為は通常「歓ぶべきもの」だろう。難しいところだとは思うけれど、行為が持つ性質上および定義上、称賛という行為が「素敵ではない」と判断される可能性は低いのではないか、とは思える。理想や幸福という概念が「好きだと思われること」を礎にしているせいで「望まれない理想」だとか「欲しくない幸福」だとかを厳密に考えてみせることが困難であるように、たとえば「褒められない称賛」は考えにくいのではないかと思うのだ。望まれない理想は結局は理想ではないのだ、と類似した判断により、褒められない称賛も実は単に称賛じゃないだけだ、なんて思う。話を脱線させたのはわざとだ。脱線によって、称賛行為は構造的に「価値あるもの」として判断される可能性が高いんだぜ、ということが言いたかったのである。でもって、称賛行為に価値があると思ってしまいがちな中で、おのれが誰かに称賛されて、おのれに「称賛されうる」という「属性」を見てしまうようになるならば、称賛されうる、という「自己認識」の変化に対して「歓喜」を感じないでいることなんてできるのだろうか、と考えていたのだった。