世界は称賛に値する

日記を書きます

魔法の笛と銀のすず(しのぶさん)

 誤解されていますが、作品は物ではありません。いや、物なのですけれども、物として見ている内は、その作品は私たちには心を開いてはくれません。もし議論の結果として作品の秘密を知り得たとしても、それは単に作品を解剖したに過ぎません。そんなやり方では作品は心を開いてはくれないのです。そんなやり方では作品は微笑み掛けてはくれないのです。私は作品の秘密を知りたいのではありません。そうではなくて、私は作品に微笑みかけて欲しいのです。秘密を知るのであれば、それは作品自らが微笑みと信頼を持って語ってくれるのでなければなりません。そのためにはどうすればいいか。

 これは自分について考えてみれば分かります。私だったら、どういう人間を信用するか。どういう人間になら微笑み掛けることができるか。私が微笑みかけることができるのは、誠実さを持って近づいてきてくれる人だけです。いや、こんなことは別に私に限ったことではないはずですが。誰でも、人を品定めするような相手には心を閉ざします。それと同じことが、作品についても言えるはずなのです。だから、私は、作品に対して誠実さな微笑みを持って近づかなければならないと考えるのです。そのためには、私は独りで作品と向き合わなくてはなりません。私は私の方をきちんと向いてくれないような相手に心を開くことなどできないからです。

 私は、花穂やなこるるやまひるに対して誠実であるために、独りでいなければなりません。しつこいようですが、それは人間関係を絶つということとはまったく別のことです。彼女たちもそんなことは望まないでしょう。そう思えるためには、私だって彼女たちを外界から隔離して独占することなど望まない、という程度の理由で十分です。ただ少なくとも、彼女たちと向き合う際には、私は独りでなければならない。意外に知られていないように思いますが、作品というのはたいへんにデリケートなものです。作品というものは、彼らの正面を向いている間しか、私に微笑みかけてくれません。ちょっとでも作品以外の方向を向いてしまえば、もう彼らは表情を消して身を隠してしまいます。私はしばしば、語れば語るほど作品から遠ざかっているように感じることがあります。これも自分について想像してみれば簡単なことで、つまり誰かが「私に対して」話しかけてくる時にはその誰かは当然私の方を向いているはずですが、その誰かが「私について」語っている時には、彼の視線は必ず私以外の方向を向いている。要するに、自分の恋人を前にして自分の恋人が如何に素晴らしいかを客観的に語る馬鹿はいない、とそういうことです。

 ただし、正直言って現時点で未だ、私は自分のこの意見に自信を持つことができていません。概ね間違ってはいないとは思うけれども、どこかに理論の飛躍があるような気がしています。どこが間違っているのかはまだ分かりませんが。
――2003/1/4
http://www.geocities.jp/sinobu_yuki_o/diary-2003-01.htm

▼同時に読んで感銘を受けた。素敵な言葉だった。好きな文章だった。ときちんと伝えておくべきだったのだろうな、と思っている。後悔している。だから、同じことを繰り返さないようにしないと、なんて思ってしまうこともあって、好きなものに対してはちゃんと好きと言っておかねばな、とも思っているのだった。駄目じゃん、とは思いつつだ。