目的として見ることと手段として見ることの違い

目的としてなにかをする、手段としてなにをする、という状況の差異

▼あるものを目的として見ること、と、あるものを手段として見ること、の違いについて考えていた。至極単純な状況から考えるべきだろう、と思った。ので、至極単純に考えよう、と思った。最も単純な形としては、目指すべき終着点を『目的』と呼び、終着点への道のりを『手段』と呼ぶ、というようなものになるのはないかと思う。▼なんてことを思考して思いつく。思いついたのは、究極的には人間ができることなんてすべて『なにかをする』だけであろう、というようなことだった。すべてを『行動』として捉える世界観がありえるよなあ、なんて考えてしまったのだった。さらに逆転させて、行動の積み重ねとして『人生』というものを見ることだってできるだろうな、なんてことも考えていた。

目的はしたいこと、手段はしたいことのためにしたいこと

▼なんて考えてから。続けて、対象の『ある行動』を『目的』という言葉で呼びたくなる状況、と、対象の『ある行動』を『手段』という言葉で呼びたくなる状況、の違いを、しばらく考えていたのだった。▼目的と呼びたくなる行動、について考えてみる。ある行動を『目的』と呼びたくなる状況、というのはつまるところ、対象の行動を実際におこなうことができたら満足だと言えるような状況、と言い換えることができるだろう。対象の行動をおこなうことに理想的な気持ちを感じる状態である、なんて言ってもいい。逆に言うなら、要するに対象の行動ができなければならない、ということだ。対象の行動だけはどうしても譲れないぜ、なんていう宣言として捉えることだって可能だろうな、なんてことすら思った。▼手段と呼びたくなる行動、について考えてみる。ある行動を『手段』と呼びたくなる状況、というのはつまるところ、対象の行動が『理想を感じてしまう状況』を達成するためのものである状況、と言い換えることができるだろう。対象の行動によって達成したいものがあるのだと判断できるような状態である、なんて言ってもいい。ここからは、対象の行為だけは譲れない、なんて気持ちは導けない。重要なのは『理想を感じてしまう状況』のはずだからだ。要するに、たとえ『手段』となる対象の行動をとれなくても、最後に理想的な『目的』が達成できればかまわない、のである。

所詮は手段に過ぎない、なんて台詞がなぜ言えるのか

▼所詮は『手段』に過ぎない、なんて言説を時おり見かけるように思う。ここには『手段は目的よりも価値が低い』という意識があるように思える。なぜなのか――これでわりと納得がいった。突き詰めれば、目的である、というのは単に『ここで重要だと感じているのはこれだ』ということなのだ。手段である、というのは結局のところ『重要なもののためのものだ』ということなのだ。ならば、どちらが大切かなんて言うまでもない。