言葉にすると似ているからといって

 言葉の誘惑が強すぎる、と思わず考えてしまった。抽象化というのは結局のところ『言葉にする』ということなんだろう、と思う。そして、人間はおおむね抽象化したもので思考する、してしまう、あるいは『思考せざるをえない』とすら言えるのではないか、と思う。つまり、思考する際になると人間はどうしても言葉に頼ってしまうようだ、と私は考えているわけだ。その束縛と制約に軽い抵抗を感じてしまったのだった。簡単に言うならば、もっとほかの思考方法はないもんだろうか、と考えてしまったわけである。言葉に頼らず、つまり、抽象化に頼らず、映像と音声をそのままの状態で操作できるような思考はないものだろうか、なんてことを漠然と考えていた。と考えたのは、人間の知覚の大部分は映像と音声に依存している、と判断していたからだろう、と思う。それをそのまま蓄積して、比較や因果や集合、というような関係性を持たせることができる思考方法はないものだろうか、と考えてみたわけだ。実際にはケースバイケースなのに、同じような抽象化ができるからといって――同じような言葉に変換できるからといって、なんか変だ、とか思ってしまう自分の愚鈍さに呆れてしまったのだった。道具をうまく扱えない人が、道具が駄目だもっといい道具ねえのか、と管を巻いているのに似ている。かもしれない。