世界は称賛に値する

日記を書きます

運命を信じて

 運命を信じる、ということは、突き詰めれば『自分の人生が神如き支配者によって支配されている』ことを許容してしまうことだろう、と考えている。煎じ詰めれば『自分の幸福が神如き支配者によって約束されている』ということを妄信してしまうことだろう、と考えている。そういった許容や妄信に障害や邪魔などを感じてしまうから、私はどうしても運命というやつを信じる気になれないのだ。たとえば、いわゆる『運命の出逢い』とやらを想定するとしよう。もしも私がそれを信じているとするなら、その私はつまり『出逢うべき人物が最初から誰かに用意されている、ということを受け入れてしまっている』のだと思う。さらに言うなら、その私はつまり『神如き支配者が出逢うべき人物なんてものをわかりやすく用意してくれていて、その人物に出逢えば自動的に幸せになれるようにできている、というような世界観を受け入れてしまっている』ということなのだと思う。私はそれが嫌いなのだ。なぜか。たぶん、そういった世界観を持ってしまうと選択がすべて無価値になってしまいそうだ、と考えているからなのだろう、と思う。最初からすべて決まってしまっているなら、たとえ足掻いてみせても価値など生まれない、という話だ。そして、だけど俺は自分の選択が価値あるものだったと思いたい、という欲求の話だ。