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不安酒場

活動記

▼▼酒場に類するところに訪れた一回目や二回目は、かなり沢山の疑問符を浮かべていた記憶がある。判らないことだらけだったのだ。というところから、一つ一つ、こういうものなのだなー、というふうに学んできた印象も、けっこう強かったりする。おとな時点から収集を開始して簡素かつ空疎かもしれないながら組み上げた知識の檻、というような印象が強くある。一つ一つ知識を積み重ねてきて、まあまあ高い位置にまで積み上げられたんじゃないかなー、というふうにも思っていたりするのだけれど、でもなんかまだけっこうグラグラしてない? って思えるところもあって、実は、不安も残っている。不穏な気持ちがある。
▼▼評判のよい飲み屋が地元付近にあると聞いて、立ち寄ってみた。満席であることも多いようだ。まぐろのぬた、浜千鳥、なんかを頼みながら、特段緊張もせずこんなふうに頼めるようになったのかあ……、とか、結局まだ緊張してる気もするけど……、とか、だいぶ曖昧なことを思ったのだった。▼▼おとななんて「おとなの顔」のフリしてるだけで実は判ってないことが沢山あるんだよー、というような言説に触れた時、ここの手触りを想起してることが多いな、とも思った。

知ってる、という言葉を、時間基準じゃなくて、眼差しの精度とかを基準に使うとよさそうかな

一行日記 思考記

▼▼特に丁寧に見てきたんじゃなくても、つまり見かたが雑だったとしても、見てきた時間が長いだけで、なんとなく「まあまあ知っているよー」的な精神を造れてしまうところがあるなあ、と思うのだけど、如何なる眼差しで見てきたのか、ということを──眼差しの、繊細さや敏感さ、丁寧さ、というものを、大切にしたほうがよいんじゃないかな、とは思うので、何かを言おうとした時に、それを眺めてきた時間、ではなくて、それを見てきた眼差しや意識の性質、というものを、当てにして──基準にして、あ、うーん、これに関しては何か言えるんじゃないかな、いや言えないかな、って検討するのが、よさそうだ、って思った(迷うならここで迷えよなー、って思った)。


▼▼追記。
▼▼ぼくはそれが大好きなので、ずっと、丁寧に見つめてきたんだ、大切に扱ってきたんだ、みたいな精神の問題より、実際に使った時間のほうが、余程、大切である、という切り口にも繋げられるのか……。まあ、調整問題、程度問題、なんだろうけど。