▼▼ライフワーク的な疑義、を、わりとおのおのが持ってしまっているのはあるよな、と想像している。人間誰もが人生で頻繁に出会う問題を源泉にしているせいで似通ってしまうものも多いだろうけど、環境の個体差を発端にしている独自性の強いものもあるだろう。
▼▼普段の生活の中で、ぼんやりといつからか、ふわっとなんとなく、漠然と不思議に、思わざるを得なくなってる問題点があって、変に、仮説立てたり、統計取ったり、検証したりしちゃってるものがある、ようには思える。
▼▼じぶんにおける「読ませてもらう」側のブログ論や日記論を書くとしたら、このあたりが軸になりそうだなあと考えた。誰でも人生で一つは小説を書ける、という言葉を聞いたことがあるけど、まあ類似品だ。
日常における波、を認識しづらい
▼▼勤務後に飲み会があった。最近多めだ。が、ここらが区切りだろう。各自動きづらくなるように思えた。
▼▼定期的でない予定の波を認識するのが苦手だ。この時期は忙しい、という想像を前提にしておくことは、まあ得意とは言えないにせよ可能なのだけど、誰しも業務や人間関係や心境に波があるので、以前は問題なかったけど、最近は駄目かも、とは、前提として妙に思いづらかったりしている。想像不可能ではないが、認識薄めなのだ。世界観や人間観や人生観の根底にうっすらとしか置けていない。
▼▼視野が狭い、という言葉でもよいのだけど、若干の違和があるかなー。見落としがちな傾向があるというか、日常の風景を見つめて解釈していく切り口として、脆弱な点がある、という言葉も思いつける。
▼▼飲み会は楽しかった。遠くに出向いてしまったので普段会えなくてひさしぶりに会えた人もいた。距離が離れて会いづらくなった人と会える機会はなぜか嬉しく思えてしまうんだけど……、なんて疑問文を立ち上げるみせることも多々あって、会いづらいも会いにくいも結局じぶん次第であって、同じなんじゃないか? って追求してみせることもあるのだけど、普段の思考に落とし込めてないから、まだまだ問いもツッコミも甘いんだろう。
▼▼明日は天候が悪化するようだった。終電前に帰った。
論理的思考を維持しやすい言葉使いのひと
▼▼論理的思考に傾向として向いている言語/論理的思考に比較的向いてない言語、という判断があるようだ。論理的思考に向いてない、と判断できる場合においては、おそらくつまり、論理面における飛躍を許してしまう単語や言葉使いが多い、ということなのかな、と思っている。
▼▼ゆえに、書き手や使い手によっては、論理性整合性を維持しやすい言葉使いを見せていることも多くて──このひとの言葉の出しかたと置きかたって、論理性の維持や促進や援護的に効率よさそうで効果ありそうで、なかなかうらやましいなー、なんて思えることもあって、なんていうかつまり、真似したくなることも多いのだった。
楽しいと楽しみとラク
▼▼喜怒哀楽は例外処理が多すぎる。▼▼喜と楽は近すぎ似すぎ、なんて頻繁に思ってるけど、楽が示す範囲も実際は不明なので、ほんとうに近似してるかは少し怪しい。
▼▼楽が「楽しい」か「楽しみ──にしてる」か「ラク」かで判断はかなり変わってくるだろう。ぜんぶに通底する要素を「楽」で指してる、としたら、さらに転換がいるかと思う。
飲み会の参加率や滞在率
▼▼勤務後飲み会に出掛けた。最近飲み会多いな。卒業時期の影響かな。深夜を越えて翌朝まで飲むような場面は避けるようになった。終了後数日間精神的に堕するのを不満に思うようになった──経験を積んで物憂いが予測できるようになった、のもあるけど、人間関係を深める手段の一つとして重視しなくなってきてる、のもあるかな。深まらないって認識ではなくて、翌朝まで飲むのが常態化してるような集団だと翌朝まで付き合うのとは別の場面でも人間関係を深める機会がありうる、なんて予測するようになってる。
▼▼簡潔に言うなら、飲み会における参加率滞在率の違い、が、集団における親密度と比例するわけじゃない、と知った、なんて言えてしまうだけの話ではある。語ってみると当然に思える型の判断だと思えるけど、当然のように思えるほど実感して理解できるまでには、正直結構時間かかった。該当事例に遭遇し蓄積するまでは具体的かつ実際的に脳内でシミュレートできなかった。実態を見て、じぶんの心理も知って、想像範囲にできた。
見捨てられたはてなの奥地
▼▼はてなスターやはてなブックマークを頂戴した際に、はてなサービスの画面最上段にある「あなたへのお知らせ」に色が灯る。この表示がないはてな画面が時々あって、ここがはてなの最果てか……、なんて時々思ったりしている。見捨てられた地と言える。まあおおよそはてなアンテナを指してる、かな。▼▼なんて思って確認してみたら、デザイン設定で「細いヘッダ」を選ぶことで、表示も可能のようだった。意外と見捨てられていなかった。▼▼って流れを受けて、はてなダイアリーでも「細いヘッダ」を選ぶことで表示は可能なんだろう、と連想してみて──現状表示されてないので、設定変更してみたのに駄目だった。全体デザイン設定の問題? あるいはここが見捨てられた地? ▼▼冷静に確認してみたら、はてなアンテナもマイページでは非表示だった。ぐだぐだだ。
物語終盤の雑な運命の動き始め
▼▼物語終了間際になって、サブキャラが微妙な距離感を崩し始めて、出逢い始めたり恋愛し始めたりする流れがだいぶ好きなので、もっと沢山やってくれてぜんぜんよい。
疑問の再発明
▼▼物語のおもしろさってなんなの……? と改めて思考しちゃってるけど、過去の誰かが間違いなく本を記しているであろう疑問だろうし、読んだらまあ納得できちゃうだろうし、納得できるくらいまとめられているものが書かれているだろうし、むしろかつて納得したことがありそうだし、単純な忘却による疑問の再発明だよなーと思った。
▼▼世界は複雑で思考を楽しめる、なんて思って、普段から比較的気持ちよく観察や思索してると思うけど、こういう疑問の水増しも結構してるんじゃないかと思うので、問題の解決や廃棄や整理によって疑問の純度を上げる運用も日々行ないたいと思った。理解した問題を忘却して、楽しくなっちゃって、結局同じところで遊んでるだけになってて、実際的にはただ足踏みしてるだけになってることだって多そうなので、問題提起や疑問や思索的にちゃんと日々先に進んでいける行動基準も設定したいものだなーと思った。
テーマを問う程度は許して
▼▼物語とテーマ、の関係については、物語でテーマを語る、テーマから物語を創る、物語がテーマを持つ、に対しての否定的な判断はない。▼▼けどまあ、微妙な不快や微妙な噛み合わせの悪さを覚えてしまう組み合わせを稀に見かけるのだよなー。
▼▼複雑だったので整理した、けど、できてない気はする。
▼▼物語と物語のテーマ、に関連する現象については、物語の創作者が「物語にテーマなんて問うんじゃねー」的に、疑問を封じようとする場面だけが、好きじゃないかな。
▼▼読み手各自が読み取ればよいのです、なんて言って、遠回しに「問うこと」を封じ込めようとしている場面も時々見かけて、同じような不満や不快を感じる。
▼▼問うことを封じ込めようとするニュアンスを持たない「読み手各自で読み取ればよいのです」もあって、印象もぜんぜん違うので、単純に嫌う姿勢ではないみたいだ。
▼▼創作者自身がテーマを語らないほうがよい、って判断している創作者はいて、実際問題、この判断自体はかなり好きである。あえて背後を曖昧にしておくことによって出せる物語的な反響のよさ、や、創作者が思いついていた/思いつけているテーマを言語化してしまうとまるで答えのように見えちゃう危うさ、は、理解できるし賛同できる。
▼▼けど、前述のような創作者的な姿勢と、問いを封じ込めようとすることは、問題が若干違うかな、と思う瞬間があるのだった。問うこと自体は許されて欲しいという感じなのかなあ。答えてくれなくてもよい──答えないほうがよいので問わないほうがよいという判断があるのもよい──けど、黙れと言われるのは嫌、なんて言える……?
▼▼枝分かれ多くて難しめだ。▼▼まあでも、問うこと自体が罪みたいになってて叱責すら受けかねないから疑問を出せない世界と、問うてみたってわかりやすい答えなんて誰も与えてくれないから結局じぶんで答えを出してみるしかない世界は、違うと思った。時に似るし、同じ現象の裏表もありうるけど、違うように具現もできると思う。