世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年03月16日(土)年齢を理由にしないらしい土曜日

丁寧なメンテナンス

執筆に挑む気持ちも前とは変わってきた。いつでもどこでも文章を書こうと思えるくらいの精神状態を構築できてきた。結局は習慣の問題だったなと思う。というか、習慣というものはこんなふうに気づかぬうちに考えを縛ってくるものなんだなとあらためて気づかされた。環境を整えたうえで書いていたときは、しっかりしたシチュエーションじゃないと書けないよ、とか思いこんでいたわけだけど、結果的には、浅はかな固定観念だったわけである。スマートフォンよりはパソコンがよかったし、使い慣れたエディタの縦書きモードがよかったし、人のいない自室でタイピングするのがよかった。が、なかば強制的に、環境を問わず書くことを推し進めてみたら、なんだかんだ慣れてきた形だ。とりあえず書き始めようとする勢いの出しかたは多少わかってきた。硬直した頭の使いかたも是正できてきた。ここがまだ準備できてないからなあ、と言い訳したくなる気持ちもまだ残っていなくはないが、それも丁寧に駆逐していきたいなと考えている。精神や認識を丁寧にメンテナンスしていく時間なんてものがまだあるのかなあ、と思うこともあるけれど(加齢とともに増えてきたけれど)、とはいえこんなもん、年齢を理由にして諦めたりするものでもないだろう。

2024年03月15日(金)驚いて泣いたらしい金曜日

保育園イベント

お子さまの保育園のイベント開催日だった。早起きが少し大変だった。そして、移動にもけっこう苦戦した。遅刻や欠席を極力したくない場合における交通手段リスクって、突きつめると備えるのが難しい。完璧はない。今回そこそこあやうい場面があったと思う。安全策を模索していくうちに限界に突き当たったというかな。とはいえ、種類、費用、予約制度など、手を広げて調べてみたら、もっといろいろな選択肢もあったりはするんだろう。正直、調査不足だった。いずれにしても、ときどきこういったあやうさを感得していないと、普段の安定した交通手段への感謝も生まれないな、とも思った。

お子さまのイベントでの振る舞いは、なかなか壮絶だった。意外なほど泣き叫んでいた。緊張したんだろう。妙に驚く要因もあったらしかった。いずれにしても頑張っていた。想定通りにはいかないものだ。終わったあとは思う存分ねぎらった。今後起こりうる交通手段リスクの問題も考えて、途中、サイクルショップに寄って、オススメの話を聞いたりもした。導入を検討したい。ねぎらいにかったカーキャリアのおもちゃを異様に気に入っていた。

2024年03月14日(木)出来ていないらしい木曜日

耳の痛いヒアリング

打ち合わせやヒアリングの詰まった一日だった。いくつかの話を聞いた。聴く業務はあいかわらず楽しい。聞いたことを資料にまとめる必要もあったのだけど、あわただしかったので、ほとんど動けなかった。週末に少し動きたいところはある。完成させるところまで、とまでは言わずとも、せめて下準備は整えておきたいかな。

話を聞いている中で、耳が痛い話がふたつくらいあった。ためにもなったが、そのぶん、反省点や改善点を突きつけられるような話だった。ひとつは、常に今日やれることを今日中に終わらせておかねばらならないシチュエーションの話(けっこうヒマだなと今日思っていても翌日突然忙しくなって「終わった」と思わされる業務環境の話)の話で、もうひとつは、ビジネス思考を指南するための打ち合わせにおける、報連相やコミュニケーションといったビジネスセオリーの落としこみの不備の話(ビジネスにおいて、至極当たり前の考えかたであって、勘所をしっかり押さえて動けていないと、結局、うまく働かないことがあるよという話)だった。

業務について、配分の振り分けかたや理論化の塩梅の最適値は、あいかわらずわからない。どれくらいが手頃な範囲なのか謎のまま動いている。過剰な負担を当然のように受け止めるのはあんまりよくない、とは思ってはいるものの、だからといって、滑らかすぎてなんの軋轢もない状態が適正だと判断することが妥当だとも思ってはいない。ほどほどの負荷がかかり続けていないと人間は弱体化するという話は理解できるし、同じところに居続けることは移りゆく世の中では相対的に後退を意味するという話も想像できる。その中での"適正なバランス"なんてほんとうにわからない。それでも、選択肢としてあたえられてしまえばラクなほうを選んでしまう習性はあって、そこに、釘を刺された気にはなった。というか、大変な状況や出来ていない状況の話を聞いて、自分自身に対して、多少は釘を刺してほいたほうがよいな、とは思わされた。

2024年03月13日(水)普通のことも書きたいらしい水曜日

普通のことも輝いている

さんざん語られ尽くしたような紋切り型の問題意識・問題提起であっても、ぼくにとってそれが急に輝き出す瞬間は、もちろんある。日記にはまあまあそれを書けている認識だ。誰かにとってごく平凡なありきたりの話を書いていたとしても、ぼくにとっては、いままさに、活性化された問題というか、血の通い始めた問題というか、様変わりする機会をあたえられた問題だったりする。その有り難いタイミングを日記として記していると言ってもよい。たまに、なんでこんなフツーのことばを連ねているんだろう、といった心持ちで日記を書いていることもあるため、こういった構造がときには背後にはあるんじゃない?と考えて、書いてみた次第だ。ただし自己正当化の側面もあるとは思う。調整はしたい。

2024年03月12日(火)学び直したいらしい火曜日

学び直している

既存知識の学び直しが多い日々だなと感じている。わかっていると思いこんでいた事柄について、実はぜんぜん理解できていなかったと痛感させられて、あらためて知見を構築し直している、みたいな状態が、最近は目立つ。というか痛感させられている。ぼくが、漠然と物事を理解し続けてきたことによる顛末、ではあるんだろう。おとなになったのちは、きっと、未知のこと新たなことに出会いながら知見を深めていくことになるに違いない、といった都合のよい想像もしていたため、実際はこんなふうにやり直しに時間を使うことになるのか、と思ったりもしている(別に不満の話ではない)。効率の話をするなら、そうならないように丁寧な理解を構築し続けてこれたらよかったんだろうか、とも思うが、まあ難しいか。「適度な理解」なんて厳密には謎すぎる。

指南書や入門書を読むことで、「これってこういうことなんだ」といった"ぼんやりした認識"を手に入れたことは、多々あった。掌握できたという気持ちすら持っていた。

が、そういった「理解したやりかた」を、実際に適用しようとしたときには、行き届かない隙間が、どうしたって生まれる。徹底的な細部を持つ現実の出来事と、包括的で抽象的な理論が、そのまま噛み合うことはほとんどない。歯車の微調整が求められる。この微調整の手管が、たとえば読書では、大変つかみづらいんだろう。ほんとうにつかみづらいものなのだ、と、痛感させられる最近の日々ではあった。

ちなみに、この、「理論を学んで、現実に適用としたときには、歯車の微調整が必要になるものだ」的な注意事項のことも、わかったつもりにはなっていた。わかったぞとは思っていたが、やはり、わかっていなかった。思ったよりも何倍も足りなかった。ここも理解できていなかったんだな~と二重に思わされている。さらにここに付け加えるなら、こうして、いま、壁にぶつかって、今度こそ「足りなさ」を理解できたかのような気にもなっているわけだけど、こうした再度の理解が、適度なものかも、もちろんわからない。いつかわかるというか、どこかで答えが出るようなものでもないのだとは思うけれど。

2024年03月11日(月)構造かのように読み取ったらしい月曜日

構造的に読むようにしてみた

構造的な読書を意識するようにした。「構造的」という言葉はビジネススラングのような側面もあるようなので、適切な言い回しかあやしいのだけど、ともあれ、読書などで「一文」を読んだときに、そのことばの示すところ――現象や構造や意味、を、丁寧に受け取り、同時にまた、背景となる全体像を思い浮かべながら、そのうえで、「受け取ったもの」を、どこにどう配置するか、どんな重みづけをするか、論理の順序などを考えながら読むようにしてみた。

文章を読み終えた直後、あるいは、説明を聴き終わった直後、丁寧に固められた理解のうえで返答してみせる人間が、まわりにいたため、なんでそんなことができるの?こういう頭の使いかたしてんのかな?と考えて、真似してみた次第だ。同じやりかたかはわからないが、このルート、このアプローチで、似たようなことができるんじゃないかな~、と思えるところはあった。新しいものに目移りしてるだけで頭つかってねーなこいつ、とおのれの頭脳に対して思った(気づいた)ところもあった。今回、読みかたを変えてみたことで、知性的な手応えが明らかによくなったせいもあって、よりいっそうそう感じられたりもしたかな。読み飛ばしていたし、認識の整理も手を抜いていたと思う。

文章を四つの観点で見て取っている

現状について、読み取りフィーリングを簡易的に記録しておくけど、いまのところ、「主/補の関係(主軸と解説文の関係)(しかも2段階ではなく数段階あるイメージ)」「上下・前後関係」「決め台詞」「お題目」の4要素が、目に留まっている感覚がある。

主/補、つまり、メイン/サブの関係は(重なり合うにつれて、ごちゃごちゃしていくところは、まああるものの)わかりやすいところだ。主題と解説文と言ってもよい。文章構造の基本とも思える。上下・前後は、ある文章がある文章の土台あるいは背景になっていたり、話の前段階、次の話、といった位置関係を認識していく感じかな。決め台詞は、なんというか、輝いて見える特徴的なことばがたいていは混ざってくるため、それを特別視する挙動を指している。きらきらしているかっこつけた言い回しがあるし、そういうことばが好きだ。お題目は、ほんとうに、「このあたりではこういったはなしをしてますよー」と通奏低音的に流れている空気(を示すことば)があるので、それのことである。こんな整理法でよいのかまだ発展途上ではあるものの、とりあえず、目についたので、残しておく。