仮説貿易

▼▼仮説が多くを占める世の中で、簡単に断言できてしまう精神、あえて断言してみせる技術、といったものに思いを馳せることが多かったりもしたのだけど、仮説のやりとり、仮説の取引、仮説の交換、仮説の貿易、人と人のあいだで仮説が行き交うこと、あるいは実際に行き交っていること、という情景や状況について解釈してみようとするのも、好きな気がするぞ、と、少し思ったりした(人様の話を聞き、じぶんの話をする、といった事柄を、仮説の行き来、という形式で見做すことは可能そうであり、この、社会の仕組みとしての、仮説交換、といった解釈を、おもしろがることもできそうだ、って思ったのだった)(ちょっと不安定で、ちょっと空疎な、でもまあ、解釈や認識という時点で重要性の強そうなところもやっぱりある、ようなものを、やりとりしているのって、なんとなく気持ちよさそう、かつ、面白そうであり、あんまり軽んじられるものでもないのかな、って思ったのだった)。

狭義に向かうのは素敵

▼▼コンピュータにおける「ソフト(software)」という呼びかたが「アプリ(application software)」という呼びかたに移行させられた雰囲気があるな、ということを思ったのだけど、厳密に言うなら、ソフトウェアはアプリケーションソフトウェアの上位にある概念であって──アプリケーションソフトウェアというものは「ソフトウェア」という集合の中にあるものであって、アプリつまりアプリケーションソフトウェアという単語の普及は、つまり、より狭い範囲を意味する単語に置き換えられた、ということなので、狭義の言葉の普及はよいことなんじゃないか、と思ったりもした。
▼▼常識的な言葉使いが「狭義のほう」に向かって変わってゆくことは、よいことだ、と思ってしまう──思えてしまう、思える、精神構造および世界観を、じぶんは持っているのだな、ということも合わせて思った。
▼▼なら、日常的に使われているような、言葉、言葉使い、を、すべて、より狭義側に寄せてゆきたいと思っているのか? 常日頃から狭くしたいと思っている? と問われたりしたら、困る気もする。▼▼用いる言葉の意味が狭まれば狭まるほど、緻密な思考が可能になりそうでは、ある、のだけれど、緻密になって繊細になりすぎて、意味や概念の調整や配置が難しくなりそうだし、結果、処理も重くなりそうだし、制御時に脳が受ける負担がおおきくなりぎて困ることになりそう、な気もしたのだった。