自己満足ばかりか、それだけじゃないか
文章は、自己満足だけ考えていればよいケースもあれば、そうじゃないことももちろんあって、見極めや、配分の調整が難しい。どちらのケースが実際に多いかは、いまだにうまくつかめていない。なんにせよ、もし、人様からの対価・評価がほしいのであれば、自己満足ばっかりじゃダメなのは、まあわかる。自己満足ばっかりだと、「相手を見ない」「読み手のことを考えない」ことにつながっていくから、結果、ひとを軽んじることになり、対価や評価といった目的からも、かけ離れていく。逆に、分析や整理のための文章だと、自己満足が軸足になっていてもそれほど問題はない(こともある)。というか、この場合むしろ、自己満足を甘く見積もると、じぶんの気持ちまで軽んじ始めてしまい、それはそれで、地に足がついていない話になりがちだ。
読みづらくなっても、こうしたい的な自己満足
だいぶ昔の自分の日記を読み返していたが、けっこう読みにくい。「語彙・概念を増やすことで、思いつける範囲も拡げられるんじゃないか、と考えていたため、聞き慣れない言葉を使いたがる傾向があった」のと、「どんな思いつきも気軽に出てきてくれる環境を目指したため、不自然な言い回しも承認していた」という(自覚的なところでは)ふたつの理由があって、結果として、自己満足の混合率も高めになっていた。わけのわからない言葉もむしろ配置したがった。ぽん、と生み出したアイデアがどうしても持つ、凹凸や混線を、たいして吟味もせず、生煮えのままふるまっていた。いまは、その時期と比べれば、多少は、調整に意識を割いている(配慮したつもりになっているだけの可能性はアリ)(配慮したほうがよい文章なのかはいまだに不明)。
仕事の話し
特定の経営者や幹部が(無意識に)望んでいる「この部署、このポジション、この役割の人間は、こういうふうにあるべし・動くべし」という考えと、世間一般での認識や、その概念が生まれてきた経緯・根本にあったはずの「そもそも、こういったことをする(こういったことを目的として生まれた)職種・業務だ」という考えの、狭間に立たされることもあって、難しい。部署やポジションや役割なんて、あくまで手段なのであって、最終目的は「会社をよくする」ことなんだから、気にすべきところはそこだけなんだ、と考えを改め、根本に立ち戻って、やれることを探し実行しなさい、みたいな話も混ざってくるので、なお難しい。
経営者の意志にそむいてでも(叛逆するとまでは行かなくとも、反発や軋轢を生むくらいのことは怖れずに)、ある目的のもとでの正しさを、少なくとも、報告・進言してみせる、っていう仕事が、実際には求められている事柄というか、根本的かつ最終的な目的になるんだろうと思うことも多いのだけど、それすら、許すかどうか・望むかどうか、経営者によるところがあるに違いない。そんな機微まで調整してみせるのが、正しい振る舞いであり、求められていることなんだと(怒らせることなくなんとかやってみせるのが仕事なんだと)、言われれば、ぐうの音も出ないが、そんな調整がほんとうに(能力的に、環境的に)可能かと言われれば、それもまた、別問題な気はするし。
人事
人事の仕事は、どうしても、経営・管理・現場などにまたがるものになって、どこにどれくらい踏みこむかが、難しい。とりあえず一意の解はない。会社の歴史・文化・規程によっても変わってくるんだろう。最終的な成果が生み出せるならなんだってよい、と決めつけて、意志決定の仕組みや前例から少しくらい外れた踏み込みだって怖れない、というやりかたもなくはないが、それが許されるかも、会社のルール・マナーによると思う。
「それは、向こう側(現場の人間や部署の責任者)が考えるべきことであって、こちら側がそこまでお膳立てする必要はない」「寄り添いすぎなくていい」みたいなツッコミが、最近していた仕事の中であって、予定していた作業がなくなったりもした。ラクにはなったものの、「やるべきことをやるべき人間にやらせろ」「サボらせるな」をとにかく優先した結果、その問題が、少しだけ、停滞したようにも見える。「向こう側にやらせつつ、適度なツッコミを入れて、停滞させない」が、いま求められている正解なのかもしれないが、しかし、そんなうまくいくかも疑わしい。これが好手だったのか?とは思った。痛い目を合わせて反省させて後悔させて次はちゃんとやらせる、というムーブ、あんまりいらないやつなんじゃないの?と個人的には感じているので、そのせいで、余計にそう感じたところもあるとは思う。