▼▼昨日の自分が遠い。いや、近いのか? 複雑な感じだ。いずれにせよ、違和感があるなあ、って思う。距離感がある。▼▼距離感? 距離感があるって微妙な言い回しだなと改めて思った。近距離とも遠距離とも確定できない。けどまあ、遠距離の演出として用いられることが多いかな? 近距離と感じられることよりも遠距離と感じられることのほうが問題視されやすいのだろう、って認識かなあ? あるいは、近距離の場合は、距離感があると言語化してみせるより適切な言い回しが何かあって、だから単純に「使用時の優先順位が低くなってしまった」だけ、とか? ▼▼昨日と今日の地続き具合が違うなあ、という雰囲気や心持ちがあるのだった。途切れ始めた、というのとも、繋がり始めた、というのとも、違うような、繊細で入り組んだ感じだ。記憶の「対象化」が強くなった──経験した現象を一つの事実として認識してしまう癖が強化された、って印象。ツイッターで目標や結果を意識し始めたのが原因だと思う。善悪や損益や賛否は検証しておこう。
▼▼起床時刻は午前7時半。勤務開始は午後2時。週末の始まり。巧く回そう。
▼▼距離がある、って言い回しがあるだろ、と反省した。距離があるなら「遠く」て、距離がないなら「近い」のは、素直に捉えれば当たり前で、だから、距離感があるね、って言葉が「遠距離」を演出してしまうのは、普通だ。距離概念自体が遠距離派生なのだな。
日参風読ませていただいたリスト、個人的ニュースサイト風おすすめなものです。
→ 「人が知っているデータは有限で、部分でしかない。その中で「最適解」とか言うのは実は語義矛盾で、実は人は「満足的水準に達した局所解」しか見ることはできない」
→ 「僕は3Dゲームを作りながら、「映像を見るんじゃなくて、映像に触るんだ」というテーマを『ゼルダの伝説 時のオカリナ』の時に決めていました」