世界は称賛に値する

日記を書きます

怒らなかった場合を考える

 たとえば実際に今日『怒ったこと』があって、怒って当然だ、と自分自身判断していたとしても、場合によっては怒らなかったかもしれない、ということが想定できるのではないか、と時おり思うのだ。確かに怒ったけれど、もしも宝クジで1億円貰った直後だったりしたら怒らなかったかもしれない、とか、確かに怒ったけれど、もしも憧れの人に告白されて幸せな気持ちになっていたりしたら怒らなかったかもしれない、とか、そういう想定が可能な『怒り』が多いのではないか、と思うのである。でもって、もしそういう風に思えるなら、そんな『怒り』に正当性なんてあるのかな、と思うわけだ。機嫌が悪いから普段なら怒らないことに怒ってしまう、という行為は通常批難される。なら、機嫌が普通だから機嫌が良いときには怒らないことに怒ってしまう、という行為だって批難されてしかるべきではないのか、と考えているのである。少なくとも、怒って当然だ、などと判断する根拠はないように思える。結局機嫌が普通とか機嫌が悪いとかで『怒るかどうか』が決まってしまうというのなら、そんなのはつまりすべて『八つ当たり』だからだ。