世界は称賛に値する

日記を書きます

遊びに誘う

▼▼遊ぶのが好きだという意識が強めなせいか、遊びに誘うのも妙に好きだ。妙に胸を躍らせているところがあるかと思う。遊ぶという情景に結実してくれるプロセスの一つだから──遊ぶという空間を実現化してくれるプロセスの一つだから、と言語化することも可能な気がする、とは思ったのだけれど、少しズレている気もした。ぜんぶは言えていない雰囲気があった。遊びに誘うという行動そのものだけが見せてくれる面白さや気持ちよさがありそうにも思えた。▼▼遊ぶという行為や場面が減ったら、つらい、とは考えていることがある。考えていることは多い。幼い頃からずっと思っている気もする。遊びが沢山あったほうがよい、遊びがないと駄目だ、という印象が、脳内のおおきなところを占めているのだ。けど、もしこれがなくなったらきっと非常につらいのではないか、と想像していたことが、実際にそうなってみたらそうでもなかった──意外にへいちゃらだった、というようなことだって、沢山あった。必須の楽しさ、必要な気持ちよさ、なくてはならない幸せ、不可欠だ、というようなものに関する勘違いは、沢山あった。だから、あんまり怖がらなくてもよいか、なくなったらなくなったで別によいじゃん、なんとかなるでしょう、と思うようにしているところもある。▼▼とはいえ、現状では、嫌だな、って、やっぱり思う。思ってしまうことを制御できていないところはある。病みつきとでも言うような、逃れがたさ、依存、などの気配を感じていたりはする。▼▼というような、快楽にふけり溺れている時の、ブレーキの利かなさ、ストイックじゃなさ、でもって、適切な自覚のなさ──自覚があるかのような自認があるせいで余計にきちんと自覚できていなさそうな状況、って、苦手だし恐怖だし、嫌いだ。嫌っておかないとマズイ、と判断しているところがかなりある。無理矢理ぶっちぎられるまで必要だという印象から逃れられない。脱却できない。払拭できない。運よくちぎれてくれるのを待つしかない。というものがあるのが、怖いのだ。あんまりよくない、と認識したいほうなのだ。このあたりにまつわる修理や修繕に関しては、現状では、まだまだ不明瞭なまま、という気もしている。まあでも経験則からなんとなく判ってきている気もする。

雄山で登山しました

▼▼北アルプスを長野県から富山県に抜けるための立山黒部アルペンルートの途中、立山登拝道コース、というところで、山に登った。雄山という山の山頂にある雄山神社峰本社に向かうことになる登山道であった。雨と霧が強めだったので、様子見をうかがうようにして進んでいったら、なんだか後戻りもしづらくなってきて、結局山頂まで登る、と羽目になった。緊張感のある雨風の変転があって、なかなかつらかったし、面白かった。進もうと決めたのが──進むか戻るか迷うまま進んでいったのが、適切な判断だったのかは多少迷うところだ。視界の悪さには驚いた。怖さもあった。身体もだいぶ冷えていた。まあいずれにせよ、よい経験ではあったんじゃないかと思えている。知見を得られたのはだいぶよかった。濃霧のために少し前すら見えないぞ、というのと、前のほうがぜんぜん見えなくなるとほんとうにどちらに下りればよいのか判らなくなるので、遭難とかってあっさりやってくるんだな……、というのが、非常にわかりやすく見通せた。▼▼少し足を滑らせただけで怪我をしそう、油断したら死にそう、道が判ることや足元が安定していることやの貴重さや稀有さ、まったく干渉できない物事が身の回りの安全性をあっさり変えてきやがる、といった状況を見つめながら、大自然が神格化されるのも当然だなあ、というようなことも判った。神がおわすことには、したくなる。したくなった。ほんとうに山や海は神感出してくるなあと考えていた。
▼▼登山をテーマにしたボードゲームで遊んだ記憶、登山をテーマにしたテーブルトークロールプレイングゲームのシナリオの観た記憶、が、けっこう最近の距離にあって、おかげで、登山に対する印象が楽しげだったりもしたので、頭の中で見比べながら登った。ボードゲームもシナリオもかなりよい出来栄えだったことを改めて理解できた。


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黒部ダムに行ってきました

▼▼地水火風のエレメンタルで思考するなら、かつては、水属性を特に舐めていたんじゃないかと思う。水使いという異能を軽んじていたり甘く見ていたりした。しかし、水の攻撃力も防御力も特殊能力も、のちのち、素晴らしいものだと判らされることとなり、結局は認識を改めることにもなった。といった、かつての認識ミスのことを、例えばダムを眺めるたびに、反芻させられている。好きな反芻ではある。
▼▼黒部ダムに行ってきた。長野県と富山県から行ける、非常におおきなダムだ。おおきいという評判だけは折に触れて聞いていた。建設にあたって多数の死傷者を出した、という説話と、多数の死傷者を出しながらも建設されたことで多くの人が救われた、という説話は、今回、初めて聞いた。現代、現状、では、おそらくもう出せない犠牲だろう。犠牲というものや犠牲という概念が持ちうる価値に対しては、ずっと迷いがある。年齢や環境ごとに異なる迷いを抱いている気もする。犠牲という言葉、犠牲という側面、ばっかり眺めて、このあたりのことを考えるのは、よくなさそう、というのも頻繁に思う。犠牲にもいろいろあるし、犠牲という言葉が見せがちな悪印象に引きずられるのもよくない。
▼▼現時点の状況の中で明らかなる犠牲を要求してくるような案件が出てきたらどうするんだろうな、どうすればよいのだろうな、というのは思った。時々思う問いではあるのだけど、実際にそうであったもの、というのを前にして、問題がおおきく迫ってきてくれたところはあった。問題が等身大になった。問題が身近なものになった。あるいは、問題の細やかなところが見えるようになった。拡大縮小めちゃくちゃだな……。
▼▼新幹線では読書を交えつつ、うつらうつらもしていた。テーブルトークロールプレイングゲームのリプレイをひさしぶりに読んでいた。読書はかなり面白くて幸せだった。遊びたくなった。新幹線を長野駅で降りる。立山黒部アルペンルート、という道のりに沿う形で動いた。▼▼北アルプス、立山、長野県、富山県、黒部湖、といった地名には特に馴染みがなかった。写真撮影はかなりした気がする。最近はやっと構図の調整で楽しみが深まるようになってきた。見栄えのするダムカレーを食べた。



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読ませてもらわないと一人生しか見えません

▼▼人の書いた文章を読む、ということを起点にして、人様の人生を想像しているところがある。人様の人生を実感しているところがある。じぶんの「これ」ではない人生がほかにもあるんだな、と認識できているところがあるなと思った。ということに、なんとなくほっとしていたりもするな、とも思った。ぼくのものではない人生がある、という思いによって、安堵したり、安心したり、している。ぼくのものではない人生がある、ということは、他者の存在を意味するし、人生の選択肢に幅があることも、意味する。世界は狭くないよ、という視界を垣間見せてくれる。
▼▼人様の文章を読まないと──人の言葉を見ないと──話を聞かせてもらわないと、ぼくのものではない人生、というものを、うまく思うことができていない、ということでもあるのかなー、と思って、不安な気持ちにはなった。でもまあ、そういうところはある気がする。異質な語りや言葉との遭遇や邂逅によって「この人生とは異なるもの」に思いを馳せられているところはあるかと思える。

ボードゲームカフェで遊んできました

ボードゲームカフェ 2018/09/14

・適当なカンケイ
・ルクソール
・クイビット
・スコットランドヤードカードゲーム
・ポケット&ビスケット
・ハグル
・ピココ
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会議2018晩夏

▼▼明るい未来が見えるかどうか、ということに関する中途半端さが、停滞や堕落を最近は招いているのではないかなあ、という疑いはあって、けれど、加齢とともに「明るい未来が見られるかどうか」に翳りも限りも出てくるじゃん、とも思えていて、とはいえ、死にも死後にも「明るい未来」など見えない、と言い切るのは、やりすぎなんじゃないかなあ、と考えてみたりも、している。明るい、っていう言いかたが駄目なだけでは、というふうに頭も働いたりする。明るいと言いたくなっているところは明るさじゃないものでもうまく埋められたりもするんじゃないだろうか。死や死後の交えた未来に対してでも似合う形容がありうるんじゃないだろうか。適切な形容が脳に置けていないせいで、不満、不快、に変換してしまっているところは、あるだろう、と思っていることは多くて、この変換プロセスのミスを、かなり怖れている、とは言える。ここばっかり鍛錬しよう調整しようとしてきた気配はある。いじるのが好きになっている。
▼▼比較的おおきな会議があって、多少、明るい未来が見られるような話も出ていた気がしている。逆に、見えなくなりそうな話もあった。まあ割合は不明だ。結果的に明るさが増したのか減じたのか、不明だ。といったことにまつわる迷いが、動きにくさに繋がっていく気もする。なんとなく切り口や話題が愚痴っぽいなあ。しかも迂遠だし。別に暗い話にしたいわけじゃないのだ。というか、頭の中が元気や平気の時であれば、暗い話にはしない。はははとかほほほとか思ってうまくやっている。昨今は忙しさも落ち着いて元気や平気の雰囲気なので、暗い話にはしないでよい。しないように決めている、とか、無意識的にしないようになっている、とか、書こうかとも思ったのだけど、しないでよい、と言い切ってしまうのが適切な印象だった。暗い話にはしなくてよい。好きな説明文だ。