世界は称賛に値する

日記を書きます

遊びに誘う

▼▼遊ぶのが好きだという意識が強めなせいか、遊びに誘うのも妙に好きだ。妙に胸を躍らせているところがあるかと思う。遊ぶという情景に結実してくれるプロセスの一つだから──遊ぶという空間を実現化してくれるプロセスの一つだから、と言語化することも可能な気がする、とは思ったのだけれど、少しズレている気もした。ぜんぶは言えていない雰囲気があった。遊びに誘うという行動そのものだけが見せてくれる面白さや気持ちよさがありそうにも思えた。▼▼遊ぶという行為や場面が減ったら、つらい、とは考えていることがある。考えていることは多い。幼い頃からずっと思っている気もする。遊びが沢山あったほうがよい、遊びがないと駄目だ、という印象が、脳内のおおきなところを占めているのだ。けど、もしこれがなくなったらきっと非常につらいのではないか、と想像していたことが、実際にそうなってみたらそうでもなかった──意外にへいちゃらだった、というようなことだって、沢山あった。必須の楽しさ、必要な気持ちよさ、なくてはならない幸せ、不可欠だ、というようなものに関する勘違いは、沢山あった。だから、あんまり怖がらなくてもよいか、なくなったらなくなったで別によいじゃん、なんとかなるでしょう、と思うようにしているところもある。▼▼とはいえ、現状では、嫌だな、って、やっぱり思う。思ってしまうことを制御できていないところはある。病みつきとでも言うような、逃れがたさ、依存、などの気配を感じていたりはする。▼▼というような、快楽にふけり溺れている時の、ブレーキの利かなさ、ストイックじゃなさ、でもって、適切な自覚のなさ──自覚があるかのような自認があるせいで余計にきちんと自覚できていなさそうな状況、って、苦手だし恐怖だし、嫌いだ。嫌っておかないとマズイ、と判断しているところがかなりある。無理矢理ぶっちぎられるまで必要だという印象から逃れられない。脱却できない。払拭できない。運よくちぎれてくれるのを待つしかない。というものがあるのが、怖いのだ。あんまりよくない、と認識したいほうなのだ。このあたりにまつわる修理や修繕に関しては、現状では、まだまだ不明瞭なまま、という気もしている。まあでも経験則からなんとなく判ってきている気もする。