▼▼明るい未来が見えるかどうか、ということに関する中途半端さが、停滞や堕落を最近は招いているのではないかなあ、という疑いはあって、けれど、加齢とともに「明るい未来が見られるかどうか」に翳りも限りも出てくるじゃん、とも思えていて、とはいえ、死にも死後にも「明るい未来」など見えない、と言い切るのは、やりすぎなんじゃないかなあ、と考えてみたりも、している。明るい、っていう言いかたが駄目なだけでは、というふうに頭も働いたりする。明るいと言いたくなっているところは明るさじゃないものでもうまく埋められたりもするんじゃないだろうか。死や死後の交えた未来に対してでも似合う形容がありうるんじゃないだろうか。適切な形容が脳に置けていないせいで、不満、不快、に変換してしまっているところは、あるだろう、と思っていることは多くて、この変換プロセスのミスを、かなり怖れている、とは言える。ここばっかり鍛錬しよう調整しようとしてきた気配はある。いじるのが好きになっている。
▼▼比較的おおきな会議があって、多少、明るい未来が見られるような話も出ていた気がしている。逆に、見えなくなりそうな話もあった。まあ割合は不明だ。結果的に明るさが増したのか減じたのか、不明だ。といったことにまつわる迷いが、動きにくさに繋がっていく気もする。なんとなく切り口や話題が愚痴っぽいなあ。しかも迂遠だし。別に暗い話にしたいわけじゃないのだ。というか、頭の中が元気や平気の時であれば、暗い話にはしない。はははとかほほほとか思ってうまくやっている。昨今は忙しさも落ち着いて元気や平気の雰囲気なので、暗い話にはしないでよい。しないように決めている、とか、無意識的にしないようになっている、とか、書こうかとも思ったのだけど、しないでよい、と言い切ってしまうのが適切な印象だった。暗い話にはしなくてよい。好きな説明文だ。