世界は称賛に値する

日記を書きます

楽園的

▼▼楽観的、楽天的、というような言葉で、じぶんが頻繁にしがちな解釈の傾向を称することがあったのだけど、世界がそういうふうであればよいのにー、というかそうであるということにしておこうぜ、決めつけちゃおうよー、わからんので好みの状況であると決めつけて語っておこうー、という身勝手な「世界の在りかた」を織り交ぜているところも多々あるので、楽園的、という言いかたが似合うんじゃないかな、って思いついた。楽園であることを前提にして指針を決めているところがあるだろ、と思った。
▼▼楽園的な考えかた。楽園的な解釈。楽園的なスタンス。楽園的な性格。
▼▼話を巻き戻してツッコむけれど、これ、楽天的、で、いいんじゃないの?(天という言葉は「世界」を意味しているのでは……)

発想飛躍ネットワーク

▼▼発想の飛躍、発想の省略、発想の矛盾、にまつわる、おのおのの習性、に「個性」を見ようとするのは、素敵だ、って思った。
▼▼発想の飛躍、発想の省略、発想の矛盾、について、長年の思考や経験や生活が築きあげた「ニューラルネットワーク」に「個性」を見ようとするのも素敵、とも思った。

「聞く」だと、内側を切り開いてみせる挙動は、想像させられない

▼▼意味を解釈するプロセスにおいて、意味を見つめる、といった「見る」ことによる比喩は、有効だと思っているな、と思った、▼▼意味を聞き取る、意味に耳を澄ます、というような「聞く」による比喩を、相応しくなさそうに思っている、とも思った。
▼▼人の発言には意味があり、演奏された曲にも意味がある、のに、聴覚に響いたものから「意味を読み取ろう」とした時にも、聞く、より、見る、という言葉のほうが、なんとなく似合う気がしてしまっている、なんて思った。音声にも音楽にも「意味を見る」を使いがちだ。
▼▼音を「聞く」っていう行動には、内側を見る──内側を読み取る、といった挙動は含まれていないような印象がある、気がするのだよなー。音というものは、まず「全体」を取り込む、ということを前提や下地にしているところがありそう、というか……。だからこそ「聞く」という行動では内側や内部を曝けない、というか……。

無いがわかる(?)

▼▼人類は言語を得たことで「無い」ということを想像の範疇に落としこめたのだ、っていう話を聞くことは、沢山あって、正直、滅茶苦茶強く納得してしまってたのだけど、類型や経験をいったんは疑っていく哲学的な懐疑スタンスで行くのなら──好きならば、ここもあやしんでみてよいだろ、と思った。言語があろうとなかろうと人類は「無い」ということが理解できる生理を持っていたのでは?

日記の更新報告がじぶんのツイッター更新に並んでいるの好き(そして最近は更新報告を忘れがちである、という自戒)

▼▼楽観、希望、理想、のんき、幸せ、といったものばかり書きたがることもあり、くどくなりそうな空気を覚えるところもあり、ツイッターに「直接的」に書き連ねるのではなく、ブログに書いてツイッターにて更新報告を行なう、というやりかたで「間接的」に見せるようにしようと思っている精神は、ありそう、かと思った。

目を閉じて集中し、鋭い意識ですぱっと見切ることで、綺麗な切り口を一つ見つけることができる、こともある(やろうとすれば、時には)

▼▼見通しが悪くてとりあえず書けるところから書いていったら継ぎ足しとつぎはぎ的にぼろぼろの長い言葉が連なっていってしまう、というような時に、切れ味の悪い包丁で刺身を切ろうとしてぐちゃぐちゃにしてしまっている……、とイメージしがちだ。