世界は称賛に値する

日記を書きます

常に抗い続けますけど

▼▼結局のところ人類にとって避けられず逃げられぬ挙動であるので常に抗い続けないといけないのだ、コントロールを強いられている、というようなものが沢山あるなあ、と改めて気づいて、キツイねえ、とも思ったのだけど、あんまり強く意識しなければ──常に抗い続けないと、なんて言いかたによって文脈を形作らなければ、まあ、言うほど難関でない気もした(対決的な心象で向かおうとするのやめてもよいよと思った)。

傑作の構造イメージ

▼▼難しく深く考えずに「多くの皆様にウケるよう」調整しようとすると、なんとなく薄く浅くしてしまうことが多くなるのだけど(薄く浅くすることで短絡的な「滑らかさ」は出せるのだ、っていうような印象)、天才や傑作の技巧、といったものを想像してみるのであれば、天才や傑作というのは、薄くも浅くもならないよう細やかな調整を行ない続けて、しかも、見事に達成してみせた所業、なのである、というふうに思い描いてみてよいのかなー、って思った(薄さゲージ浅さゲージが下がらないよう、上がり下がりを調査しながら、微調整をし続けている研究者イメージ)。

世界イメージは異なるのか、世界イメージの問題なのか

▼▼物語の登場人物における人格や性格を描き分けるやりかたにおいて、かつてその人物に起こったある出来事によって出来上がった「この世界への認識や理解」に関する「核」があり──「核となっているイメージ」があり、あるいは、その人物の頭や躰の性能から来ている「核」があって、こういったその人物が抱えている「核」から流れ出てきているものによって、世界観や信念がこのようになっており、結果として、この人物にとって世界はこう見えている、ので、こういう判断をする──こういう決意をしている──こういう選択をしてしまう、というふうに描かれていることがある。
▼▼比較的好きな書きかたではあると言える。違いが判りやすくて好き(判りやすいほうが好き)、人物の形状が豊富になるので好き(豊富なほうが好き)、とは思っている。でもって、人物各位の眼差しが異なっている──皆様それぞれの世界を生きている──認識は多重である、ということが明瞭になるところも、好きである(人と人との断絶や相容れなさが描かれているのも好きである)。おのおのが異なる美意識や価値観のもとで生きているということを、こういうふうに描いてくれている、というのは、なんかよいぞ、って思っている、のだ。誰もが背後や奥底では同じようなものを抱えていて、その俎上で単純に「好き嫌いや動きが異なっているだけ」なのである、というような描き分けかたがありうるわけだけど、こういう情景と比べるならば、前者の情景のほうが好きだ、とは思っている。
▼▼世界を見つめている時のイメージが、ぼくと君では異なる、っていうことを、顕してくれる話、示してくれる話が、好きなのだ。

▼▼ということに対して、しかしいくらか疑問もある。実際の世の中に適用してみようと思い始めると検証したくなる気持ちも箇所も出る。


▼▼おのおのの「世界を見つめている時のイメージの核」というのは、ほんとうにそれほどに異なっているんだろうか。結局のところ「たいして変わらぬ単純な俎上」というものが、人類のもとに、ある可能性だって、あるのでは? ▼▼でもって、おのおのの各自で見ている世界は違うのだ、って言ってみせる時に──想像しようとしてみた時に、おのおのの中に形成されている「イメージの核」が異なっているからだ、っていうふうに考えてしまってよいのだろうか。ほんとうに各自の世界観の「異なり」を形成し維持しているものは「イメージ」なんだろうか。


▼▼人物の描き分けが下手である。台詞や行動を奇抜に演出してみせることで誤魔化してはいるけれど、突き詰めて見るなら、人物達の行動理念や価値観や美意識は結局のところ似たようなものであり、ぜんぜん違うものとして描き分けられておらず、表面的なもので誤魔化しているだけである。もっと芯から、根元から、核から、「別の物」を抱えているように描かなくてはならない。じゃないと、品数が、種類が、貧相で、貧小である。彩り豊かな多数の人物形状を目指すなら「根っこから異なる人達」を並べないと駄目だ。
▼▼っていうふうに思っているところがあるんだなー、とは改めて思った。▼▼というのに関しても、ほんとうかよ、とは思った。根っこから異なるものを並べようとしたほうが豊潤になる、は、真なのかなー。▼▼一個の素材からいろいろなものを作ろうとするよりも、複数個の素材からいろいろなものを作ろうとしたほうが、単純に、種類が多くなるであろうことは、その形は、判る。んだけど、人物、人格、を想像する、っていうことにおいて、その挙動は、妥当なのかな、とも思うし。

テレビゲーム攻略的な解析を世界に施してゆく流れの描写

▼▼テレビゲーム的なシステムを持った世界で生きることになった、という小説を最近いくつか読んだ。好きである。テレビゲーム的なものが現実に実際にあるとするなら、というふうに空間を設定してみた時に、その世界の挙動を形作っている「テレビゲーム的なシステム」を「解析」しようとしてみせる、っていう行動が出てくるわけだけど、こういう描写に新鮮味を覚えているのではないかな、と、ふと思った。以前はこういう言葉を小説の描写として読んでいる機会って少なかった気がする。この世で言うところの、物理学者が出来事を定式化し数値で記述できるようにしてゆく、っていうのと同じなのかな、とも思ったのだけど、論理の形状が異なっている気もした。計算できるようにするのとは目線が違う気もする。化学や医学、経済学、あとまあ、工学寄りかな。


▼▼現実システムとゲームシステムはぜんぜん違う。形状を支えている力学がぜんぜん違うからだ。ゲームシステムが見せる運動を比喩的に持ってくるようなことによって、現実システムに向ける眼差しや解釈を変えることもできるはずだけれど、比喩的に用いて解釈や感覚を変えてみせるのと、「実際にそうである」のは、やっぱりぜんぜん違う。
▼▼ゲームシステムと同等のものがほんとうに世界を形作っている現実システムとして存在してしまった場合、どういう世界が出来上がるのか、どういう社会が出来上がるのか、どういう人類が出来上がるのか、でもって、諸々の現象の無理や矛盾に対してどういう口八丁が可能になるのか、っていうところがあって、ここに関する、翻訳のしかたや工夫のしかた、誤魔化しかた、などが、テレビゲーム的システムを現実化させた小説の楽しみどころである、ということも思ったりした。攻略本の解説のような小説描写をまあまあ好き好んで読んでいるところはあるかな。小説家の「うまいこと隙間を埋めてみせる」腕前を眺めて「やるねえ」って思っているところはある。


▼▼『フォーチュンクエスト』とか『MADARA』、『魔法陣グルグル』なんかの、ステータス表示などがあった昔の「テレビゲーム的」な雰囲気があった物語と、現行「テレビゲーム的なシステムを解析しようしてみせる」物語も、比較しつつ考えていた。やっぱりTRPGのリプレイも絡んではきそうだなー。ステータス自覚を持っている人物の発言、っていう意味では、やはりここに目立っているものがあった。あとまあ、確かに昔はあんまり「ステータス自覚」がなかったように思える。というのを避けさせていたものや好ませていたもの、というのがあるならば、なんなんだろう、とも思った。

「作品」に対する判定が人生の中に数多く並んでいること、が、好きなのか幸せなのか

▼▼創作物、作品、に触れることが好きだ、とは思っていて、毎日、常時、面白いもの斬新なものなどなどを追い求め続けているところもあるわけだけど、追い求め続けているということは、つまり、創作物や作品に対して、好きだ!嫌いだ!素敵だ!駄目だ!っていうような「判定」や「選別」をし続けている、ってことでもあって、要するに、ぼくはこういう「判定」や「選別」が、人生に沢山あるとよいねえ、ずっとやり続けたいねえ、と思っているのかな、という疑問を持った(「物事」全般に対して「判定」をやり続けるのが好きなんかな? というふうに問いを形作ってみたら、いや別に人生内に充ち満ちて欲しいとか思ってないなあ、って思えたのだけれど、「創作物」や「作品」っていうふうに対象範囲を狭めてみたら、微妙な雰囲気が出た)。

物理法則の因果と心理法則の因果

▼▼因果、という眼差しを、物理現象に当て嵌めた時と、精神状態に当て嵌めた時、では、利点や欠点、判断ミス時の形状、などが異なるな、って思った(因果関係という言葉を使ってしまうと類似の挙動であると勘違いしてしまうところがあるのだけれど、物理現象における因果関係、と、精神状態における因果関係、には、異なるところがあるというか、取り扱いかたの違いや見間違いかたの違い、があるぞ、ってことを、普段から踏まえておいたほうがよさそう、って思い直した)