世界は称賛に値する

日記を書きます

俺はまだ本気出してないだけ、が/も、自信

▼▼いわゆる「俺はまだ本気出してないだけ」というのも、自信、と言えるよなあ、とは思って、根拠のない自信、や、思い込み、勘違い、錯覚、あたりの言葉も関連で見回したのだけど、根っからの自信、というのは結局のところ根拠のないものなのである(……根があるのかないのか)、といった言説もあるじゃん、と思い、結果、混乱し、まあでもともあれ、自信としての種類や質の問題というのはどうでもよくて(如何なる形をしていようと、自信というパワーで発露しているならば、それは「自信」と言ってしまってよいのかも、と思えるところはあって)、なんというか、持っていた自信が崩れた時、挫けた時、の、対処法、対処の難しさ、に、違いがあるだけなのかな……、なんて思ったりもした。
▼▼根拠があるほうが崩れやすそうだけど立て直しも多少はやりやすそう、根拠がないと崩れにくいけど挫折した時の立て直しがしづらそう、と典型的なことも思った。まあでもこれも、根拠が妥当だったかどうか、勘違いや錯覚でなかったかどうか、によるか。あると思っていたものが無かったのと、少しズレていたのと、おおきくズレていたのと、代替や予備があるかどうかと、このへんで、再構築のやりかたも難易もおおきく変わってきてしまうだろう。
▼▼実際にやり遂げてきたことによって培われた自信、と比較しないと駄目な気はした。
▼▼堅固で強固な自信は欲しい。自信が幸せに繋がる雰囲気はかなりある。作りかたや持ちかたがあるなら知りたいとは思いがちだ。という欲があるせいで、このあたりについて気になって、考えていたところは、ある。

以前の職場の送別会2017年10月

▼▼別離と言えるほどの配置や位置ではなかったのだけど、多少の縁もあったので、若干遠くなるであろう距離のための送別会、に参加してきた。前々の職場の飲み会だった。非常に愉しい飲み会だったと思う。人が集まって酒を飲む、というだけでも、ピンからキリまであるものだな、と最近は時々考えてしまっている。面白さの多寡と機微に魅せられた経験が増えてきたせいだろう。オモシロイツマラナイに翻弄された記憶が脳にこびりつきつつある。滅茶苦茶オモシロイ会の記憶よりは滅茶苦茶ツマラナイ会の記憶のほうが少なめなのは僥倖と言える。
▼▼近況報告が多かった。就職や結婚を切り口にした話が、世代や年代のせいか、増えたかとも思えた。けど、近況報告は別に面白さに寄与していなかったかな。と思えているのは素敵であった。愉快な談笑だった。
▼▼途絶えていた遊び会が再開できそうになったのも、よかった。ボードゲームで遊ぶ場がまた増やせそうであり、幸せだ。しかし最近ボードゲーム好きすぎでは? 人と遊ぶ的な意識がぜんぶ持っていかれている気配さえある。まあボードゲームに限らず、遊びすぎな雰囲気はあるのだけど……。遊ぶのが好きすぎる?という疑問は大昔からある。リソースやコストを軽視しがちなのだ。無視とさえ言えそう。遊び人的に遊び抜いて破綻し自滅していくような精神が理解できる気はしてしまっている。まあ、結局はビビるので、いちおうブレーキがかけられている、のは、よかったけど、とも思う。

Nintendo Switch『スーパーマリオ オデッセイ』を買った

▼▼Nintendo Switch『スーパーマリオ オデッセイ』を買った。革新的だ、と驚きながら買ってみた次第ではあるのだけれど、丁寧に思い返してみるに、ほぼ毎回、革新的だ、と新作マリオシリーズには思わされている印象もあった。『ギャラクシー』にも『サンシャイン』にも似たような驚きを持ったのは憶えている。ファミコンの『スーパーマリオ3』にさえびっくりしていたはずだ(というかマリオ3の時に覚えたワクワクをいまだに強く引き摺っている気もする──空を飛べる、マップ制になる、は、驚異的だった)。非常にツボに嵌まったのはスーパーファミコン版の『ワールド』だった。というか、真っ当に遊んだ(最後まで遊んだ)マリオは『ワールド』だけであり、むしろ、3Dマリオは今回が初めてだったりする。あんまり熱烈な愛好者ではないとは思う。が、いずれにせよ、今回もまた、スゲエ! と素直に思わされて、わくわくしていて、うまく感激の波に乗れたところもあったので、買ってみた、のであった。
▼▼動画サイト等で視聴することのできる事前予告の動画が、大変素敵だった。動機と決め手になった。夢がある……!と感激していた。


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気持ちの『同じ』

▼▼歓喜と狂喜と有頂天と喜びと嬉しさと快楽と気楽と楽ちん、激怒と怒りと不愉快と不快と苛立ちと許せなさと正義、哀しみと切なさ、悔しさと後悔と反省、油断と甘え、親しみと慣れと馴染みとなつきと飽きとダレ。
▼▼精神状態を、同一線上や延長線上、類似や連関、同種、同類、というものによって分類し理解する癖は、かなりあるけれど、同じと見做さないのもアリかなあ、と思ったりもしている(というか、例えば「苛立ち」を、「怒り」の、前兆、弱い版、続いていったところにあるもの、というような雰囲気であっさり見てしまうことに対し、妥当なの? と考えてみてもよいのでは、とは思う)(「苛立ち」を甘く見ていることになりそうな気もするし)(というふうに言うならば、昨日の怒りと今日の怒りは『同じ』なのか?)(昨日の怒りと今日の怒りを『同じ』と判断しないと決めるなら、それはつまり『同じ』という言葉の意味を壊してるだけだったりするんじゃないの?)(まあ、微妙な違いが、繊細な差異が、あったりするじゃん、という事実や事態を、うまく見つめられるようにしておきたいな、といった標語を掲げてみせたいだけかも)(というか、如何なるところから如何なるところまでが、同じで、違うか、見ようとしてるのが好きー、っていう趣味嗜好の話?)

話の前段階に足場を戻してくれるインタビューが好き

▼▼誰かの語りに対して、前提条件を──背景を──文脈を──事前情報を、もっと詳細に、もっと沢山、くださいよ、とか思ってしまっていることは、間々ある、ので、インタビュー型の記事が比較的好きなのは、ある語りに対して、何故?と問い直してくれていることが多いから──ひとつふたつ手前のところまで話を巻き戻してくれたり、より深いところまで話を降ろしていってくれたり、してくれている状況を数多く見かけたことがあるから、なのかな、と思ったりした。
▼▼うーん、なんか好きじゃないぞ……、と思ってしまうようなインタビュー記事が間々あるのだけれど、つまりそれは、基礎や土台の話に戻したり深めたりしてくれないやつなのかなー、とも思った。

結果としての秘密感

▼▼素敵な言葉と出会うことができたら、素敵じゃん!と叫びたくなるような気分はやっぱりあって、でも、素敵な言葉が個人のウェブ日記上のものであった場合は、あんまり派手に世の中に知らしめるのもよくないのかも?(知られたいと思っていない可能性がまあまああるかも?)、ということについても考えてしまって、結果、自重してしまうことも多い──、というような、結果的な、自重、秘匿、範囲の狭さ、が、むしろ、こういう言葉の特性と言えたりもするのかな、と思った、というか、いわゆる「ぼくだけが知っている」というような、気持ちよさ、好きさ、に、構造的に、響いてきてくれるようなところがあって、そこがよいのでは? と思ったりはした(人様の日記で読ませてもらった素敵な言葉が、あんまり知られていない言葉であることを、時々再認識してしまい、違和というか不満というか、ああそうかあ、認知度低いんだっけ、と少し残念無念を思わされるような状態、が、思考の起点だった)。