世界は称賛に値する

日記を書きます

根津のボードゲームカフェ「コロコロ堂」に行ってきた

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http://korokorodou.com/


▼▼東京都文京区の根津にあるボードゲームカフェ「コロコロ堂」に行ってきた。今回が初めての利用である。最近はボードゲームカフェを開拓志向だ。いろいろと行ってみて雰囲気の違いを楽しんでいる。コロコロ堂さんは毎週木曜日の夜に「夜コロ」というイベントも開催されていて、毎週、テーマごとに遊べるボードゲームを選定されてもいる(テーマに合致するゲームの持ち込みがされたりもしているようだ)。
▼▼ボードゲームカフェを観測するにあたって、フォローの繊細さおよび手厚さ、等を気にしてしまっているところは、かなりおおきいんじゃないかと思う。安心して使えるかどうか、という軸を明確に意識してしまっている、とは言えそうである。言及や解説もしたがりがちだ。かつて、初めてボードゲームカフェを使う時に、初心者は放置、的な雰囲気があったらどうしよう、といった不安に塗れていたことを憶えているからだ。けっこうビビっていた。ので、このあたりに関する情報は欲しいものである、とは、今でも思いがちなのだった。見ておきたくなるし、言っておきたくなる。事前に調べて把握できる状況があったらよいなと思ってしまっている。
▼▼とはいえ、最近はこのあたりに関する意識、というか、不安や恐怖が、思いのほか薄くなってきてしまっている感覚も、あったりはしている。だいぶ肩の力が抜けてきているんじゃないかと思えたりもする。今回遊ばせてもらった「コロコロ堂」さんにしても、前回遊ばせてもらった「アソビCafe」さんにしても、丁寧なフォローのもとで非常に楽しく遊ぶことができる場であり、まるで問題がなかった、ので、あんまりビビらなくてもよいのでは……、という経験則が構築されつつあるのだろう。大変穏やかかつ和やかな雰囲気の中で遊ぶことができた、遊びやすかった、といった経験が積み重なって、安心だ、という気分が基本になってきてしまっている。ここ最近の開拓の中で、ボードゲームカフェの経営や運営に関しては、ほんとうに遊びやすい空間作りを目指されているのだ、といった気持ちが固まりつつある、のであった。
▼▼ボードゲームカフェが安心して使えるのなんて当然じゃん──わざわざいちいち言うまでもないじゃん、といった認識が固着し、意識も言及もしなくなる──する動機を見失う、というのは、嫌だなー、と思うので(最初は、得体も知れないし、ビビるし、実際ビビってたじゃん、という視点を忘れずにいたい、と思うので)、安心感に浸りすぎないようにしたいな、とは思うけれど……。
▼▼(ネット上の評判なんて、基本的には「褒める流れ」であろうから、いくらかの嵩増しや水増しはあるんでしょうよ、結局言うほどじゃない(皆「使いやすい」とか言ってるけど、表面上的なことがあるんじゃないのー、とか思ってて、すいません……、とはだいぶ思った)(と言っても、まあやはり、場所にも人にもよるんだろうし、運やタイミングの問題もあるだろうし、ぜんぶがぜんぶ、いつだって完璧、ということでもないのだろうけれども……)(まあ、実際のところ、現在の経験の中でわりとはっきり言えるのは、けっこうな不安と緊張を抱えながら暖簾をくぐった「コロコロ堂」や「アソビcafe」だったけれど、なんだかんだ、だいぶ安心しながら遊べたよ、ということだったりはする。しますね。このあたりのことを、行く前の段階では、なんとなく『疑いつつ』行ってみたんだけど、思ったよりもだいじょうぶだったー、平和だったー、楽しかったよー、というふうに書いている経験談って、あんまり見たことがなかった気がしていたので、そういった風味を混ぜつつ、書き残しておきたくなった、のであった。書いた)
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切り取り性と芸術

▼▼芸術と、世界に対する「切り取りかた」には、関わりがある、と印象している。神様が全知全能で「切り取らずにいられる」者だとするならば、神様に芸術はないのかも、と思った。
▼▼人間の持つ「切り取り性」を──人間の知性の限界と、限界があるからこその「理解がおよぶところまで『切り取ってみせる』工夫」を、芸術を支えるものの一つと見做してみせることで、芸術を人間的なものとして見做す、という形状になるかなあ……。▼▼切り取り性、切り取り感、切り取る技術、に、まるで触れることなく、芸術論なんかを語ることって、できなそうな気もするし……。

活動確率を高めてくれる昂奮を保護

▼▼世界と人生と日常における、効果と効率、よさ、満足度と充実度、のようなものに関して考えてみると、やはり「活動量」が肝心なんじゃないだろうか、とは思えるところがあって、であるならば、活動ができる確率を高めてくれるタイプの気持ちや考えを、注視し、保護し、推進してゆく、といったやりかたが、結局は決め手になってきたりするんじゃないかな(でもって逆に、活動率を沈静化させてしまう精神や感情や思考を、減衰させるようにしていくのがよいのかなあ)、と、今回改めて思ったりした。

当然的善行

▼▼そうするのは当然じゃん、やるのが当たり前じゃん、といった顔立ちと発語のもとで実行される善行および善意、が気になってしまい考え始めてしまうところがあって、思考の初手の段階では、浅慮による「異なる側面や異なる文脈や異なる状況に対しての、目の向けていなさ、見ていなさ、つまり、別形態に関する考慮していなさ」によって、言えているのではないか? 言えるような精神構造が成立しているのではないか? なんていうふうに考えてしまったのだけど、いやでも、結局は性格の問題なんじゃないかなー(様々なケースをしっかり見つめて、絶対に正しい、とは断言しづらくなっていたとしても、とはいえ、言える性格の人は言えるんじゃないの?)、そして決意と覚悟の問題とも言える気がする(というか決意できて覚悟できるかどうかがむしろ性格の範疇?)、世界観や思想、環境、の問題がおおきいような気もするし(決意と覚悟まで辿り着ける背景および状況があるかどうか……)、というふうにも思えてきて、混乱し始めた、し、脳内がぜんぜん落ち着かなくて、まだまだ整理中だったりもする。

啓蒙され開眼させられる才覚

▼▼人に啓蒙され、人に開眼させられる、というようなことの、うまさ、および、うまいやりかた、というものがあるんじゃないかなー、と最近は思うし、なんとなくどういうものが「うまい」のか、判ってこれている気もするのだけど(あと、あの人うまいぞ、とか思えている瞬間もあるかと思うのだけど)、でも、改めて説明しようとすると説明が妙に難しいというか、説明を始めると長くなりそう……、丁寧に説明すると内部処理がの多さに目眩がしそう……、面倒くさそう……、といった予感が、かなりあって──嫌な関門にしてしまっているところがあったりして、結局、言語化まで辿り着けていない──結局は理解をサボってしまっている、という雰囲気があるなあ、っていう気もした。

耳を貸せる瞬間

▼▼推薦や説明に出くわすことがあったとしても、無意識に聞き流すようにしてしまっていて、耳を貸すことも耳を傾けることもぜんぜんできていなかったのだけど、ある時、不意に、運よく、たまたまなんとなく、意見に従ってみたら──従おうと思うことができて実際に行動してみることまでできたりしたら、非常に「よく」て──非常に「合って」いて、認識とスタンスを改めたほうがよい、と思えるようになった──思考と行動を改める切っ掛けになってくれた、という経験が、かなり沢山あるはずなのだけど、でも、いくら沢山の経験があっても──あったとしても、「ある時不意にたまたまなんとなく受容して許容できる瞬間」の見つめかたはいまいち判らないし、「やってみたらよかったー、聞き流していたのはよくなかったー、ぼくの判断が間違っていたー」、といったミスの事前把握のしかたも判らないし、「頑固や強情、と、柔軟や素直」のメーターの動かしかたも不明瞭だし──、なのでまあ、コントロールしてみせよう、と思うことが、そもそも不遜や無謀なのかも……、なんて思ったりすることも、ある。
▼▼とはいえ、このあたりをうまくやりくりできることが人生と世界のキモなんじゃないかね、と思えるところも(特に最近はかなり)あったりしていて、だからまあ、経験からほんの少しずつでも理解していかねばなるまい、と、このあたりに対しては、ほんとうに強く、思っていたりもする。経験から帰納できないものか、経験から掴みどころを見つけ出せないか、と、懸命に思っているところがあったりはする。